2010年2月1日月曜日

1927年 『マッチボックス・ブルース』 ブラインド・レモン・ジェファーソン




ブラインド・レモン・ジェファーソン(Blind Lemon Jefferson 本名レモン・ヘンリー・ジェファーソン 1893年9月24日~1929年12月12日?)は、米国テキサス州出身のブルース、ゴスペルシンガー&ギタリスト。

彼自身はカントリー・ブルースに分類されるが、彼の楽曲の持つポテンシャルや後進への影響を考慮し、「テキサス・ブルースの父」と称される。

ブラインド・レモン・ジェファーソンは、テキサス州の貧しい小作人の家に、ブラインド(盲目)で生まれた。
生年月日は、役所の記録から1893年10月26日ということになっているが、これは彼の父が後になって与えた役所登録用の誕生日で、正確な生年月日はわかっていない。

ジェファーソンは10代前半でギターを弾き始め、テキサス州のイースト・テキサスという町で路上演奏をしていた。
彼の少年時代を知るいとこが、後年語っている。

「仲間達が女の尻を追い回したり、ブートレッグを売りさばいたりしてる中で、あいつは一人で歌っていた。夜の8時頃から、夜が明ける頃まで、仲間達がみんな帰っちまった後でも、あいつは一人、路上に座ったままで、ずーっと歌っていたよ。」

1910年代前半頃、演奏旅行でテキサス州ダラスを訪れた際に、後にブルースやアメリカン・フォークのジャンルで鬼才として知られるレッド・ベリーに出会う。
その頃ジェファーソンは、テキサスで最も革新的なアーティストの一人となっており、レッド・ベリーは一も二もなくジェファーソンに傾倒する。

また、目の見えないジェファーソンの手を引き、ダラスの町を案内して回る少年がいた。
少年はジェファーソンからギターの弾き方を学び、ブルースの何たるかを学んでいた。
幼い頃のTボーン・ウォーカー、テキサスブルースのカリスマとなる男である。

ブラインド・レモン・ジェファーソンの名での初レコーディングは、1926年の『ブースター・ブルース」と『ドライ・サザン・ブルース』。
その後3年の間に100曲近いレコーディングをし、43作を発表するが、残念ながら初期のレコーディングは録音状態が非常に悪く、聞くに堪えないものが多い。

彼は1927年に、代表曲となる『マッチボックス・ブルース』と『ブラックスネイク・モーン』を、1928年に『シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケップト・クリーン』を発表。
この3曲は、後世の音楽に強い影響力を残したとして知られ、ビートルズ、カール・パーキンス、ボブ・ディラン、グレイトフル・デッドなど、ブルース以外のミュージシャンからも幅広くカバーされている。

キャリアも充実し、結婚して子供もいたジェファーソンは、1929年、嵐のシカゴで遺体で発見される。
彼の突然の死には謎が多く、死亡時間も死亡原因も、何一つ正確なことはわかっていない。
心臓麻痺だった、毒殺された、犯罪事件にかかわっていたなど数々の逸話があるが、どれも憶測の域を出ていない。

こうして、実際に数々のミュージシャンを育て上げた「テキサス・ブルースの父」は、遺体となって故郷テキサスに帰った。
彼は最初ノーザン・二グロ・セメタリーという粗末な黒人専用墓地に埋葬されたが、2007年、彼の墓は「ブラインド・レモン・記念墓地」と名づけられ、自身の代表作『シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケップト・クリーン(俺の墓がきれいなままか見ていてくれ)』で望んだとおりの、美しい姿で残されている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ブラインド・レモン・ジェファーソンの『マッチボックス・ブルース』です。

この曲のオリジナルは1927年ですが、録音状態があまりいいとはいえないため、この動画の音源は再録音を行ったものを使用しています。

さて、「テキサスブルースの父」と、しばし称されるブラインド・レモン・ジェファーソン。
しかし、彼のCDボックスセットを見ると、『キング・オブ・カントリーブルース』と命題されています。

ここで当然、「え?この人のジャンルは、テキサスブルースなの?カントリーブルースなの?」という疑問が生まれます。

では、テキサスブルースとカントリーブルースの違いについて説明しましょう。
かなりマニアックな話になってしまいますが・・・

1936年、ギブソン社が世界初のエレキギター「ES150」を発表するまでは、ギターといえば当然アコースティックでした。
このアコースティックギターを使った初期のブルースの総称を、カントリーブルースといいます。

1936年といえば、ブルースが成立してからすでに30年以上の時が経過していますから、一口にカントリーブルースといっても、「デルタブルース」「テキサスブルース」「イースタン(バイドモント)ブルース」など、すでに色合いの違う様々なブルースが存在していました。

上記3つのブルースの違いは後々説明しますが、それぞれの名称が地域によって分けられていることにお気づきでしょうか?

これがカントリー(国、田舎)ブルースの名称の由来で、代表するアーティストの出身地で分けられています。

いわば「ご当地ブルース」とでも言うべきもので、音楽のジャンルよりも地域分けを目的とした名称です。

では、テキサスブルースを例にとって見てみましょう。
テキサス・ブルースの代表格、演奏スタイル、ジャンルを表にすると下のようになります。

ブラインド・レモンジェファーソン
(アコースティック、弾き語り、カントリーブルース)

ライトニン・ホプキンス
(アコースティック、弾き語り・バンド、カントリーブルース・モダンブルース)

Tボーン・ウォーカー
(エレキギター、バンド、モダンブルース・ブルースジャズ)

スティービー・レイ・ヴォーン
(エレキギター、バンド、モダンブルース・ブルースロック)

このように、同じテキサスブルースと呼ばれる人たちでも、楽器、演奏形態、ジャンル共にばらばらです。
また、エレキギターを弾くTボーンやレイヴォーンは、カントリーブルースにすら含まれません。

では、ご当地ブルースは出身地のみを意味し、音楽的色合いの違いはないのでしょうか?

答えは、「音楽的違いも、大有り」です。

世界初のブルースレコードの発売は1920年、米国のラジオの全国放送の開始が1926年です。

世界初のブルースの楽譜は1912年に発売されましたが、初期のブルースミュージシャンは楽譜が読めない者がほとんどで、「人と人とのふれあい」のみが、ブルース伝達の手段でした。

交通網にも限界があった昔のことですから、当然、地域による特色の違いが生まれます。

テキサスブルースに関していえば、初期のテキサスブルースは、同時代の他のブルースよりも比較的わかりやすく、メロディアスで、ブルースの基本である3コード12小節の構成から大きく逸脱することもありません。

近年のエレキギターを使ったテキサスブルースでは、熱狂的で派手なプレイやパフォーマンスが多く、いぶし銀で渋いプレイが多いシカゴブルースとよく比較されます。

米国テキサス州は、日本の1.5倍の面積を持つ広大な州です。

その歴史も独特で、もともとメキシコ領だったテキサスは、1836年に独立宣言をし、一時独立国となります。
また、独立国となる1836年までは奴隷制を禁止しており、独立後約30年は奴隷制を採用するものの、奴隷解放も南部の州ではいち早く進みました。

アメリカ領となった現在でも、テキサス州出身の人々は「テキサン」と呼ばれ、独特の風俗と気質を保っています。
また、テキサス州のみに適応される法律や条例も存在しています。

こういった地理的環境や歴史的背景が、音楽に与えた影響はとても大きいでしょう。
特に、奴隷制の中心地であり、人種差別が強く、デルタブルースの故郷であるミシシッピ州デルタ地帯との比較は、とても興味深いものがあります。

このように、ブルースに限らず、他の音楽も他の文化も、地理的環境、歴史的背景、テクノロジーの発展などにより、大きく姿を変えます。

ジャンルによる違い、人の流れ、歴史による変化などを考慮すると、文化の枠組みのようなものが見えてきます。

さて、他に地域名で示されるブルースとしては、シカゴブルース、UKブルースなどがあり、日本にも日本特有のブルースがあります。

一つのジャンルの中で、地理的、歴史的変化を追いかけるのは、一つのとても楽しい音楽の聴き方です。
うーむ、やはり、少々マニアックすぎるでしょうか??(笑)

*現在「カントリー」と呼ばれているアメリカの音楽と、カントリーブルースは、基本的に違います。
しかし、「カントリー」自体は1930年ごろに発生した音楽ですが、起源を遡ると古い欧州民謡にたどり着くなど、これまた歴史のある音楽です。
もちろん、ブルースとの歴史的、地理的接点もあり、互いに影響しあっていますので、そのお話は後ほど。。。


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2010年1月29日金曜日

1924年 『ラプソディ・イン・ブルー』 ジョージ・ガーシュイン



ジョージ・ガーシュイン(1898年9月26~1937年7月11日)は、ニューヨーク出身のピアニスト/作曲家。

ガーシュインをクラシックの作曲家として習った方は多いと思うが、実は600曲にのぼる作品群のうち、純粋なクラシックとして聴けるものは20曲ほど。
比べて、歌曲(ポピュラー音楽)の作品は500曲を越す。

このジョージ・ガーシュイン、ブルースを語る際にはたいして重要視されないものの、黒人音楽全般を語る上では非常に重要な存在。

ガーシュイン自身は白人でありながら、黒人音楽(主にジャズ)に傾倒し、ジャズがクラシックに影響を与えるようになったのは、このガーシュインからと言われている。

それまで、主に音楽的教養のない黒人達が、知識よりも感性を頼りとした即興演奏でジャズを演奏していたのに対し、ガーシュインは高度な知識とクラシック的技術をもちいて、音楽理論としてのジャズを大きく発展させた。

そして、ジャズやブルースがパーティ、酒場、売春宿などのBGMにすぎなかったのに対し、純粋に音楽を楽しむ「コンサート」という形でジャズを演奏したのは、このガーシュインが最初である。

ロシア系ユダヤ人移民の貧しい家に生まれたガーシュインは、小学生の頃から音楽に親しんで育った。

両親はまず、ガーシュインの兄のアイラにピアノを買い与えたが、文学少年だった兄アイラはピアノに関心を示さず、いつしか、弟のジョージが自分のもののようにしてしまった。

ジョージ・ガーシュインの名が広く知られるようになったのは、1919年の歌曲『スワニー』のヒットから。
人気歌手のアル・ジョンソンのお気に入りになったことで、ガーシュイン自信も人気作曲家となる。

1920年代に入ると、文学少年だった兄、アイラ・ガーシュインが作詞をし、弟のジョージ・ガーシュインが作曲という、兄弟のコラボレーションが始まる。
『私の彼氏』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』など、この二人によるポピュラー音楽、ミュージカル音楽のヒットは数多い。

そして1924年、ガーシュインは彼の最大の代表曲とも言える『ラプソディ・イン・ブルー』を発表する。
この曲は、ジャズとクラシックの架け橋とも言える「シンフォニック・ジャズ」として、ジャズとクラシック両方に大きな衝撃を与えた。
有名なのは、当時人気バンドだったホワイトマン楽団とガーシュイン自身による共演。

『ラプソディ・イン・ブルー』で音楽的にも商業的にも大成功をおさめた彼は、1920年代後半頃からオーケストラやオペラの作曲も手がけるようになる。

兄のアイラ・ガーシュインと、作家のデュボース・ヘイワードの協力のもとに、1935年に発表した『ポーギーとべス』は、黒人社会の風俗をリアルに描き出したフォーク・オペラ」。
出演者が全て黒人という、当時にしては革新的とも挑戦的とも言えるキャストで演じられた。

人種差別が強く残る当時、初演時はたいした反響は得られなかったが、作品の質の高さとリアリティが徐々に評判を呼び、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。
なかでも、劇中で歌われる『サマー・タイム』は、ジャズ・ブルースの名曲。
ポピュラー音楽のスタンダードナンバーとして、世界中で愛され続けている。

1937年7月11日、ガーシュインは脳腫瘍のためハリウッドで帰らぬ人となる。
享年38歳。
死ぬ直前に「頭の中で何かが焼けるような音がしてから、自由が利かなくなった。」と語っていることから、後の医学では、くも膜下出血ではなかったかと指摘されている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ホワイトマン楽団とガーシュインの珠玉の共演『ラプソディ・イン・ブルー』です。

この曲には「シンフォニック・ジャズ」という形容詞が使われ、ジャズとクラシックの架け橋となった名曲です。

おかげでガーシュインは、ジャズファンからはジャズの作曲家だといわれ、クラシックファンからはクラシックの作曲家だといわれ、現在でもこの種の議論をたまに耳にするほどです。

『ラプソディ・イン・ブルー』が書かれた1924年、ガーシュインがすんでいたニューヨークの街では、ハーレム・ルネッサンスと呼ばれる黒人文化が、大輪の花を開き始めていました。

ハーレム・ルネッサンスについては、世界最初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』の項でも軽く触れましたが、被差別階級だった黒人の地位と権利の向上を明確に掲げた、社会的文化革命のスタート地点です。

このハーレム・ルネッサンスは、1929年に始まる世界大恐慌を持って終了とされていますが、その思想は、後の公民権運動やブラックパワー・ムーブメントにも大きな影響を及ぼしています。

ハーレム・ルネッサンスが世に輩出した偉人、才人は数多く、さわりだけでも以下のような名が上げられます。

W・E・Bデュボイス(政治指導者)
黒人として、始めてハーバード大学から博士号を取得。
公民権運動の指導者でもあり、全米黒人地位向上協会を創立。

マーカス・ガーベイ(政治指導者)
黒人民族主義の指導者。
世界黒人開発協会を設立。
ジャマイカの20ドルコインの肖像画にもなっている。
レゲエ・ミュージックの元祖とも言われている。

ラングストン・ヒューズ(作家)
黒人文化や風俗をとらえ、普遍的人間像を描いた。
人種差別や女性軽視などに直接訴えかける作品も多い。

ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン(作家)
黒人文化を讃え、人種差別問題を社会に訴えた。

ジャック・ジョンソン(プロボクサー)
黒人初のボクシング世界チャンピオン。

他にも、作家のジェシー・フォーセット、ルドルフ・フィッシャー、美術家のジャコブ・ローレンス、チャールズ・アルストン、俳優のチャールズ・ギルピン、ポール・ロブソンなど、このスペースではとても書ききれないほどの著名人が出ています。

音楽の世界では、世界初のブルース・レコードのメイミー・スミス、ベルースの女帝ベッシー・スミス、コットン・クラブの看板奏者デューク・エリントン、ジャズの巨人ルイ・アームストロングなどが代表格といえるでしょう。

また、ジャズ史上最高の女性ボーカルの一人といわれるビリー・ホリデイ、13回ものグラミー受賞を誇るエラ・フィッツジェラルド、バップの歌姫サラ・ボーンなどは、黒人女性という観点から見ても、ハーレム・ルネッサンスの影響を大きく受けているといえます。

そして、このジョージ・ガーシュイン。

ガーシュイン自身は白人で、ロシア系のユダヤ移民という家庭に生まれました。
白人とはいえ、ユダヤ系移民の家庭は貧しいものが多く、ガーシュインよりやや後に出てくるスウィングの王様ベニー・グッドマンや、映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグなども、貧しいユダヤ系移民の出身です。

ガーシュインが黒人音楽であるジャズに傾倒したのは、同じく貧困階級にありながら、エネルギーと創造性に溢れる黒人文化が、よほど魅力的だったのかもしれません。

そして、世界で初めてジャズのコンサートを開いたり、黒人だけのオペラを創作するなど、その活動は黒人中心のハーレム・ルネッサンスの名に恥じないほど革新的で、歴史的にも意味のあるものものでした。

ハーレム・ルネッサンスに始まり、公民権運動やブラックパワー・ムーブメントを経て、現在も音楽史やエンターテイメント界に燦然と輝く黒人音楽や黒人文化。
しかし、現在の形にたどり着くには、想像を絶する困難と、長い長い道のりがありました。

このブログは、その長く険しい道のりを一つ一つ追いかけているものだと言えます。

それではお聞きください。
1927年の演奏です。

ジョージ・ガーシュインとホワイトマン楽団で
『ラプソディ・イン・ブルー』

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2010年1月26日火曜日

ローリング・トゥエンティス(咆哮する20年代)



今回アップした動画は、『チャールストン』という1920年代に流行したダンスの映像です。

チャールストンは1923年に大ヒットしたミュージカル『ランニング・ワイルド』で使われ、全米をはじめ、世界中に大ブームを巻き起こしました。
そしてこのチャールストンの踊り、音楽、白黒の映像は、「古きよきアメリカ」という形容詞でアメリカを語る際、最もよく使われる手法となりました。

それだけチャールストンの流行は、1920年代のアメリカを象徴する出来事だったのです。

1920年代、第一次世界大戦から世界大恐慌までの期間は「Roaring 20's/ローリング・トゥエンティス」 (咆哮する20年代)と呼ばれ、アメリカ社会における狂騒と、アメリカ文化における変革の時代でした。

その社気的要因としては、第一次世界大戦の勃発、戦勝による軍需景気、禁酒法の施行、マフィアの台頭などが挙げられます。

1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ニューオリンズが軍港化され、歓楽街が閉鎖されます。
これによりニューオリンズの音楽家達は仕事の場を失い、シカゴやニューヨークなど北部の大都市に移住し、自然と黒人音楽の中心地も北部へと移動するのです。
また一般の黒人達も、差別の強い南部を抜け出し、軍需景気に沸く北部の街々に多く移住しました。

アメリカが第一次世界大戦に勝利すると、多額の賠償金により未曾有の好景気が始まります。
ニューヨークやシカゴといった大都市には、歴史上初めての「キャリアウーマン」が現れ、女性の社会進出が進みました。

中でも「フラッパー」と呼ばれる女性達は、おかっぱ頭に真っ赤な口紅、シャネルがデザインした最新のファッションに身を包み、酒を飲みタバコを吸い、つなぎの水着で海水浴に出かけ、ダンスホールでは足を高々と上げてチャールストンを踊りました。

この軍需景気は、わずかながら貧困層である黒人社会にも影響し、黒人層から出た多くの才人たちは、やがてニューヨークで「ハーレム・ルネッサンス」の花を開かせます。
この「ハーレム・ルネッサンス」には、黒人達に音楽鑑賞や読書をする余裕が生まれたこと、白人の富裕層が無償で黒人芸術家をバックアップしたことなどが、要因として欠かせません。

また、1920年に施行された禁酒法は、密造酒の製造や地下酒場の営業の原因となり、マフィアに大きな資金源を与える結果となりました。
マフィア達は、自分の地下酒場にお気に入りのミュージシャンをスカウトし、これがジャズやブルースの発展に大きな影響を与えます。
なかでも、アル・カポネ率いるシカゴ・マフィアは強大な力を持ち、シカゴ・ジャズの黄金時代が始まり、シカゴ・ブルースは芽生えの時期を迎えます。

同じくシカゴの街では、ブルースと教会音楽の融合が進められ、新たな教会音楽である「ゴスペル・ミュージック(ゴスペル・ブルース)」が生み出されます。
私達が普段ゴスペルと呼んでいる音楽の始まりです。

文学の世界では、『老人と海』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』などの著者、ノーベル文学賞受賞のヘミングウェイや、『偉大なるギャツビー』の著者スコット・フィッツジェラルドなど、アメリカ文学史において欠かせない作品・作家が数多く登場しました。

そして、それらの社会的、芸術的活動を支援するかのごとく、1920年にペンシルバニア州ピッツバーグにKDKAという世界初のラジオ局が登場します。
ラジオの普及はアメリカ全土に一気に広がり、1926年にはNBCが全国放送を開始します。
これが、アメリカ音楽の発展や普及に、大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

この他にも、1920年代には政治的、社会的、文化的に数多くの変革が起こりました。
とてもこのスペースで書ききれるものではありませんが、それらの多くは「新しい時代」を予感させるものでもありました。

マフィアが真昼間からぶっ放つピストルの音と、ブルース、ジャズ、ゴスペルなどの黒人音楽が、まさに全米に「咆哮」した1920年代。
それを象徴するような、『チャールストン』の大流行。
ほんの一部ではありますが、古きよきアメリカをご堪能ください。

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2009年11月24日火曜日

1923年 『ダウン・ハーテッド・ブルース』 ベッシー・スミス



1920年、メイミー・スミスがブルースとして世界最初のレコード『クレイジー・ブルース』をリリースし大ヒットすると、黒人女性ブルース・シンガーに世間や業界の注目が集まり始めた。

こうした時代の波に乗り、ベッシー・スミスは1923年、『ダウン・ハーテッド・ブルース』でデビューし、大ヒットを記録する。

テネシー州チャタヌーガの路上で、その日のパンを得るために路上演奏していた少女が、ついにスターダムへの階段を駆け上がるのだ。

1920年代に始まる世界大恐慌でアメリカ全体が低迷している間にも、ベッシーは着々と成功の階段を上り、ついにミュージカルの聖地ブロードウェイでの成功を手中にする。

そして、1930年代に入りスイングが大流行すると、ベッシーは「ディキシーランドの神様」ルイ・アームストロング、「ビッグバンドの先駆け」フレッチャー・ヘンダーソン、「スイングの王様」ベニー・グッドマンらと共演する。

こうしてベッシーの人気と地位は不動のものとなり、彼女はいつしか「ブルースの女帝」と呼ばれるようになった。
彼女の声量は「建物も揺るがすほど」といわれ、情感溢れる歌声は彼女の死後70年以上を過ぎた現在でも、「ブルース史上最も偉大な女性ボーカリスト」と言う専門家も多い。

ベッシー・スミスは、まさにブルース界のシンデレラであった。

しかし、ベッシーの死は突然に、そしてあまりにも悲しい形で訪れた。

1937年9月26日、ルート61でベッシーは交通事故に遭い、重傷を負う。

目撃者がすぐ救急車を呼び、ベッシーは急遽搬送されたが、なんと市内の白人用の病院が、黒人であるベッシーの収容を拒否したのだ。

市内をたらいまわしにされ、出血多量のため手遅れとなったベッシーは、翌日、事故現場から遠く離れたミシシッピ州の病院で息を引き取る。

ブルース界最大の才能と、43歳という若い命が永遠に失われた瞬間だった。

実際に救急車を呼んだ目撃者は、事故当時のベッシーはまだ意識があったと証言している。
しかも、その目撃者に医学の知識があったことから、応急手当も完璧だったという。

ベッシーの本当の死因は交通事故ではなく、人種差別だったのだ。

彼女の代表作はデビュー作の『ダウン・ハーテッド・ブルース』、ベッシーの代名詞『セントルイス・ブルース』、1928年の大ヒット曲『エンプティ・ベッド・ブルース』などが上げられる。

上記3作品は、後世に残したい名曲“グラミー・ホール・オブ・フェイム”を受賞。
その他、彼女には数百曲の録音があるといわれるが、聴けるものと聴けないものがあり、復刻版の製作が続けられている。

♪ ♪ ♪

さて、今回アップした動画は「ブルースの女帝」ベッシー・スミスのデビュー曲『ダウン・ハーテッド・ブルース』です。

本文でもご紹介したとおり、ベッシーを本当の意味で死に追いやったのは、交通事故ではなく人種差別でした。
しかしベッシーが死亡した1937年当時、ベッシーの収容を拒否した病院側の態度は、決して「違法」ではなかったのです。

ジム・クロウ法
1876年から1964年にかけて、アメリカ合衆国南部の州に存在した人種差別法。
アフリカン・アメリカン(アメリカ黒人)、ネイティブ・アメリカン(インディアン)、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、ブラウン(黒人と白人の混血)を対象に、法律、権利、教育、生活態度にいたるまで、白人との差別化を明記した法律。
州によって内容は異なり、それらを総称してジム・クロウ法という。

内容としては、主にこんな感じです。

黒人の定義。先祖四代に遡り、黒人の血が一滴でも入っていれば、黒人とみなす。
黒人と白人の結婚、交際の禁止。一つの部屋で夜を共にするのは、性行為の有無にかかわらず違法。
白人女性看護師のいる病院には、黒人男性の立ち入り禁止。
黒人学校と白人学校の分離。
バスや電車の座席、車両の分離。レストランや公共施設の分離。
社会的平等や、異人間種結婚を推奨する出版物、集会、講演、宣伝、その他の活動の禁止。

上記以外にもにもさまざまな取り決めがありましたが、違反者には厳しい罰則や罰金が科せられました。

音楽業界においても、人種差別は同様でした。

差別の強い南部を逃れ、多くのアーティストが北部へ移住しました。
演奏しているのは黒人なのに、ジャケット写真は白人というレコードが売り出されました。
ルイ・アームストロングほどの大物が、ツアー先でホテルに泊まれず車の中で寝た、ということもありました。
ナット・キング・コールほどの優れた歌手が、歌ってる最中に顔にいたずら書きをされる、ということもありました。

そして極め付けが、このベッシー・スミスの死です。

1964年7月2日に公民権法が制定され、ジム・クロウ法は即時廃止となりました。
しかしそれまでは、有名無名にかかわらず、ほぼ全ての黒人アーティストが人種差別の被害者でした。
それによって失われた才能は、もはや統計を取れるレベルではなく、、取り戻すすべもありません。

国際化、グローバル化が叫ばれる現在、音楽はユニバーサル・ランゲージ(世界言語)であると言われています。
それは、日本語や英語などの言語を理解しない間柄でも、同じ楽しみや悲しみ、感動などを共有できるからです。

古いブルースのレコードを聴くと、当時の黒人達の嘆きや悲しみが伝わってきます。
自分のすぐ隣にいる人を。自分とちょっと違うからと言って差別するのは、世界へ通じる心の窓を閉じてしまうのと同じくらい、悲しく、浅はかなことに感じます。
だって、こんなに時を隔て、海を隔て、言語も歴史も文化もまったく違う人の歌う歌が、こんなに心にしみるのですから。

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2009年11月19日木曜日

1920年 世界初のブルースレコード『クレイジー・ブルース』




メイミー・スミス(1883‐1946 オハイオ州出身)は、世界で最初にボーカル・ブルースを録音し発表した、ミュージカル・ダンサー&シンガー。

1920年発表の『クレイジー・ブルース』は、歴史的文化財としてグラミー・ホール・オブ・フェイムに名を連ね、米国立国会図書館に音源が保存されている。

1920年8月10日、メイミーは『クレイジー・ブルース』『イッツ・ライト・ヒア・フォー・ユー』などを含む数曲を録音し、これらは音楽史上初めてのブルースのレコードとなっただけでなく、史上初めて黒人女性が録音した音源となった。

『クレイジー・ブルース』は、発売から1年以内に販売枚数100万枚を超えるという、当時としては驚異的なセールスを記録し、彼女の成功は社会現象となる。

人種差別の真っ只中にあり、女性軽視が当たり前のように存在していた時代でのメイミーの活躍は、同じ女性や有色人種から大きな支持を得た。

やがてマスコミ、レコード会社、音楽興行側はこういった人たちの存在を無視できなくなり、それまでほぼ白人専用だったホールや劇場に有色人種用の席を増設するようになった。
また、「演奏は黒人だが写真は白人」ということが横行していたレコードのジャケットに、演奏者である黒人本人を使うようになっていった。

そしてこのメイミーの成功を皮切りに、黒人女性シンガーをフィーチャーしたブルースの黄金時代が始まるのだ。

彼女の代表作は、なんと言っても世界最初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』だが、1929年発表のサウンド・フィルム『ジェイルハウス・ブルース』も、音楽映画やミュージック・ビデオの先駆けという意味でとても興味深い。

世界で最初のブルースのレコード、世界で最初に音源を残した黒人女性、そして「ブルースの女王」の称号と、数々の栄光をその人生に刻んだメイミー・スミスは、1946年、ニューヨークで63年の輝かしい人生を終える。


♪ ♪ ♪


今回アップした動画は、世界初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』のオリジナル音源です。
動画といっても、この頃プロモーション・ビデオなどは存在していないので、写真と音源だけですが。

このメイミー・スミスの『クレイジー・ブルース』は、世界初のブルースのレコードとしてだけでなく、いろんな意味で社会に影響を与えました。

人種差別や女性軽視が、まだ当然のように存在していた1920年代。

芸術や文化は、黒人達が自分達の存在とその意義を、社会に訴える有効な手段でした。
そして「成功する」ということは、「黒人が白人より劣った人種ではない」ということを、証明する意味を持っていたのです。

黒人であるメイミーの活躍は、黒人の持つポテンシャルを見事に証明しました。

また、女性であるメイミーの成功は、ベッシー・スミスを代表とする女性ブルースの黄金時代を築き、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンなど、次世代の女性エンターテイナーが活躍する下地を作りました。

このように1920年代は、才能のある黒人や女性達が多く世に輩出されます。

そしてこの動きは、元奴隷やその子孫が結集して住んだ、ニューヨークのハーレムに多く見られました。

これが、1919年から1930年代前半まで続く「ハーレム・ルネッサンス」です。

唯一無二の黒人文化が花開いたハーレムは、新しい文化の一大発信地となり、それまで白人を対称にしていた「文化」という存在に、大きな革命を起こすのです。

また、ハーレム・ルネッサンスは、黒人の知性、才能、努力による、人種差別に対する文化的抵抗でもありました。

そして、黒人の地位と人権の向上を明確にうたった最初の社会的な動きであり、その思想は1950年代に始まる公民権運動や、ブラックパワー・ムーブメントにも大きな影響を与えます。

教育や仕事、公衆トイレやバスの席順にいたるまで、あらゆることで黒人達を虐げてきた人種差別。
貧困は貧困を生み、教育や仕事の欠如は黒人達の未来を闇色に塗りつぶすものでした。

そんな中、ブルースという黒人音楽のレコード化と、メイミー・スミスという黒人女性の成功は、新しい時代を照らす朝日のように、当時の人々には感じられたことでしょう。

では、「世界最初のブルースのレコード」
1920年の録音。
メイミー・スミスで『クレイジー・ブルース』

お楽しみください。

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2009年11月14日土曜日

1919年 第一次世界大戦終結


世界30カ国以上が参戦し、欧州、中東、アジア、アフリカ、北米、太平洋、大西洋、インド洋地域を巻き込んだ第一次世界大戦は、世界の勢力構図と政治形態を大きく変える結果となった。

1917年、ロシア革命が起こり、帝政ロシアが崩壊。
第一次大戦から脱落したロシアは、賠償として勢力化にあったフィンランド、バルト地方、ポーランド、ウクライナなどを割譲。
レーニンを指導者とする、社会主義体制へと向かう。

1917年、中立を保っていた米国の第一次世界大戦参戦。
米国の参戦により均衡が崩れ、ドイツ帝国が崩壊へと向かう。

1918年、ドイツ革命が始まり、ドイツ帝国が崩壊。
同年11月11日、新しく発足したドイツ共和国と、米国、英国を中心とする連合国との間で休戦協定成立。

1919年6月28日、ベルサイユ条約調印により、第一次世界大戦が終結。

世界の構図と勢力図は、第一次大戦によって大きく塗り替えられた。

「帝国主義」が時代遅れになり、「君主制」が消滅した。
ベルサイユ条約により「国際連盟」が発足し、「世界平和」という新しい理念が生まれた。
そして、「社会主義」という新しい体制が始まり、「民主主義」と反目し世界を二分する。

そして、表面上は終結した第一次世界大戦だが、世界中に深刻な爪あとを残した。

オーストリアのハプスブルグ家の追放により、新国家ユーゴスラビアとチェコスロバキアが誕生。
しかし、この両国は国内での民族紛争が続き、やがて分裂する。
そしてその紛争は、現在も続いている。

オスマントルコの崩壊により、アラブ人とユダヤ人が大量流出。
イギリスがアラブ人とユダヤ人双方にパレスチナでの国家建設を約束したことにより、パレスチナ問題へと発展する。
パレスチナとイスラエルは、現在も抗争状態にある。

ドイツへの過剰制裁により、政治、経済両面で様々な問題が発生。
これらは、ナチス・ドイツによる第二次世界大戦への引き金となる。

戦勝国となった日本の国際的地位向上と経済的発展。
これにより、日本のアジア地域での植民地政策がすすみ、太平洋戦争への引き金となる。

こうして、かつてない被害と死傷者を出した「第一次世界大戦」は、約20年後に訪れる人類史上最大の悲劇、「第二次大戦」の要因を世界中にばら撒き、終結した。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ベートーベン交響曲第9番の後半部分です。
前回同様、ブルースとは何の関係ありません。

演奏は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
指揮は、フェルベルト・フォン・カラヤン。

カラヤンは、世界3大オーケストラのベルリン・フィルの音楽監督と、同じく3大オーケストラのウィーン・フィルの芸術監督を兼任し、ベルリン・フィルから「終身主席指揮者兼芸術総監督」という最高栄誉を受けた、20世紀最高の指揮者の一人。

日本にもカラヤンのファンは多く、日本を代表する指揮者、小沢征爾氏の師であり、NHK交響楽団で指揮したこともあります。
また、日本で行われた「あなたが選ぶクラシックの名盤」の投票で、上位30枚のうち28枚がカラヤンの指揮だったということもありました。

他にも、CDの録音時間を『第九』の入る74分に決めた、オーケストラで初めて女性奏者を雇ったなど数々の逸話があるカラヤンですが、実はこの人、とても数奇な人生の持ち主でもあるのです。

フェルベルト・フォン・カラヤン。
1908年4月5日オーストリアのザルツブルグ生まれ。
第一次世界大戦の敗戦国となる、オーストリア帝国で音楽を学びました。

1929年にデビューし、1939年にはドイツのベルリン国立管弦楽団と、イタリアのミラノのスカラ座でオペラの指揮者に就任します。

なんとも輝かしい経歴ですが、1939年といえば第2次世界大戦の2年前。
この時期にカラヤンは、日本と共に3つの敗戦国となる、ドイツとイタリアに本拠地を置くのです。

そして同39年、ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーの主催する演奏会の指揮者に任命されます。

カラヤンの得意とするベートーベンやワーグナーは、同じドイツ出身のヒトラー大のお気に入りでした。
カラヤンは、ヒトラーから「君は神の道具だ」と最大の賛辞を受け、ナチス党員に抜擢されます。

それからというもの、カラヤンのオーケストラはナチス文化の象徴となり、シンフォニーは党員の士気の鼓舞に使われました。

1941年、第二次世界大戦勃発。

ナチスは近隣諸国を蹂躙し、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの大量殺戮を行います。
何百万もの罪のない命が奪われ、運よく生き残った人々も、一生消えない傷を心や体に刻まれました。

そして1945年、第二次世界大戦の終結とドイツの敗戦。
「ナチス」と「ヒトラー」の名は、史上最大の「悪」として歴史に刻まれます。

翌1946年、カラヤンは故郷オーストリアでの演奏会に着手しました。
しかし、ナチス党員であったことが発覚し、占領軍により公開演奏停止処分を受け、その後3年間、カラヤンは迫害を受け続けます。

戦争により、カラヤンは音楽を奪われてしまいました。
人々も、次第にカラヤンを忘れ去っていきました。

しかし、本物の芸術と才能は、カラヤンをこのまま終わりにはしなかったのです。

1948年、再びウィーン・フィルの主席指揮者に就任。
1950年代には、敗戦の傷跡が残るイタリアのミラノ・スカラ座で指揮。
そして1955年には、最大の敗戦国であるドイツのベルリン・フィルで、終身主席指揮者芸術総監督となるのです。

戦後、カラヤンの指揮は変わりました。

格式やしきたりよりも、聞く人と演奏する人を大事にするようになりました。
自分の地位や名声よりも、芸術の向上を第一に考えました。

そして、体調不良に悩まされながらも、芸術の普及と後進の育成のために世界を飛び回り、世界で一番多忙な音楽家となるのです。

カラヤンの芸術に対する執念は、年を負うごとに増していきました。
世界最高の地位にあるカラヤンが、なぜそこまでするのだろうと、人々は噂しました。

あくまで想像に過ぎませんが、もしかしたらカラヤンは、戦争によって奪われたものを取り戻そうとしていたのかもしれません。

それは、「音楽」の本当の姿。

第二次大戦中、カラヤンの音楽は芸術本来の姿を失っていました。
そして敗戦と共に、カラヤンは音楽自体を取り上げらます。

しかし、世界の頂点にいる指揮者も、路上演奏の貧乏ミュージシャンも、音楽家が描く想いは同じだったのです。

「国や戦争のためでなく、芸術や感動のために演奏したい。」

「独裁者(ヒトラー)のためでなく、音楽を愛する人々のために演奏したい。」

カラヤンは、タクトを振り続けました。

タクトの振りすぎにより脊髄をいため、生涯に3度の手術を受けました。
脳梗塞のため、リハーサル中にタクトを落とし、指揮台から落下したこともありました。
晩年には歩行も困難になり、指揮台の回りに柵をめぐらして指揮をしました。

「楽壇の帝王」と称された、20世紀最高の指揮者カラヤン。
しかしその基盤は常に、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアであり、第二次世界大戦の敗戦国ドイツとイタリアでした。

1989年7月16日、カラヤンはこの世を去ります。
地元の教会に、カラヤン自らが用意していたという墓地は、それはそれは質素なものでした。

ザルツブルグ市はカラヤンの功績をたたえ、豪華な墓地の提供を遺族に申し入れました。
しかし、カラヤンの未亡人であるエリエッテ夫人は、「故人の意思ですから」と、市の申し入れを現在も断り続けているといいます。

2009年11月5日木曜日

1914年 第一次世界大戦勃発



1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位後継者が、ボスニアの首都サラエボでセルビア人に暗殺される(サラエボ事件)。
平和交渉は決裂し、同年7月28日、オーストリア政府はセルビアに宣戦布告する。

三国同盟によりオーストリアと同盟関係にあったドイツ帝国は、セルビア支持を表明していたロシア帝国に対し軍事動員の解除を要求するが、ロシア側がこれを拒否。
これによりドイツ政府は、8月2日にロシアに、3日にフランスに宣戦布告をする。

突然の宣戦布告を受けたフランスはイギリスに同盟を求め、ドイツ軍のベルギー侵攻を確認したイギリス政府は、8月4日ドイツに宣戦布告する。
これにより、イギリスを宗主国とするカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦することになった。

日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本は、8月23日にドイツに宣戦布告。

同年11月にオスマントルコが、翌1915年にイタリアとブルガリアが参戦。

アメリカ合衆国は、欧州と米大陸の相互不干渉をうたったモンロー主義に基づき孤立を保っていたが、国内で反ドイツ世論が巻き起こり、1917年4月6日ドイツに、12月にオーストリアに宣戦布告。

これにより欧州諸国、アメリカ大陸、太平洋地域を巻き込んだ人類初の世界大戦、第一次世界大戦が勃発した。

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今回アップした動画は、ベートーベン交響曲第9番。
簡単に言えば、大晦日になると耳にするあの歌、いわゆる第九です。

はっきり言って、ブルースとは関係がありません。

では、なぜこの曲を選んだのかというと、実はこの曲、第一次世界大戦下の日本とドイツをつなぐ、平和の歌だからなのです。

ドイツに宣戦布告した日本は、当時ドイツの植民地であった中国の青島に侵攻し、4700名のドイツ人捕虜を捕獲します。
第二次世界大戦と違い、第一次世界大戦での日本は国際法を遵守し、捕虜の扱いにおいても紳士的だったといいます。

4700名のドイツ人捕虜は、日本国内12箇所の捕虜収容施設に送致されます。
なかでも、徳島県の板東捕虜収容所の待遇はとてもよく、ドイツ兵と地元住民の交流も許されていました。

それまで戦場や収容所にいた人たちが、徳島県の優しい人達との交流を許されたのです。
どれだけ、心と体が休まったことでしょう。

このことにより、ドイツ料理やビールなど、数々のドイツ文化が日本に紹介されます。

そして、このベートーベン交響曲第9番がドイツ人捕虜によって演奏され、日本に初めて紹介されるのです。

やがてこの曲は、いつしか毎年大晦日になると歌われるようになり、日本人はこの曲を聞きながら1年を振り返り、この曲を聴きながら新しい年を迎えるようになりました。

悲しいけれど、第二次世界大戦では、世界最大の戦犯国となる両国です。
しかし、兵士、民間人を問わず、いつの時代も人々の心には「平和への願い」があったはずです。

ベートーベン交響曲第9番。

日本題名『喜びの歌』

この歌が、いつまでもいつまでも『喜びの歌』であり続けられるよう、もう二度と『悲しみの歌』になってしまわぬよう、そんな願いをこめて、今回この動画をアップしました。