2010年1月29日金曜日

1924年 『ラプソディ・イン・ブルー』 ジョージ・ガーシュイン



ジョージ・ガーシュイン(1898年9月26~1937年7月11日)は、ニューヨーク出身のピアニスト/作曲家。

ガーシュインをクラシックの作曲家として習った方は多いと思うが、実は600曲にのぼる作品群のうち、純粋なクラシックとして聴けるものは20曲ほど。
比べて、歌曲(ポピュラー音楽)の作品は500曲を越す。

このジョージ・ガーシュイン、ブルースを語る際にはたいして重要視されないものの、黒人音楽全般を語る上では非常に重要な存在。

ガーシュイン自身は白人でありながら、黒人音楽(主にジャズ)に傾倒し、ジャズがクラシックに影響を与えるようになったのは、このガーシュインからと言われている。

それまで、主に音楽的教養のない黒人達が、知識よりも感性を頼りとした即興演奏でジャズを演奏していたのに対し、ガーシュインは高度な知識とクラシック的技術をもちいて、音楽理論としてのジャズを大きく発展させた。

そして、ジャズやブルースがパーティ、酒場、売春宿などのBGMにすぎなかったのに対し、純粋に音楽を楽しむ「コンサート」という形でジャズを演奏したのは、このガーシュインが最初である。

ロシア系ユダヤ人移民の貧しい家に生まれたガーシュインは、小学生の頃から音楽に親しんで育った。

両親はまず、ガーシュインの兄のアイラにピアノを買い与えたが、文学少年だった兄アイラはピアノに関心を示さず、いつしか、弟のジョージが自分のもののようにしてしまった。

ジョージ・ガーシュインの名が広く知られるようになったのは、1919年の歌曲『スワニー』のヒットから。
人気歌手のアル・ジョンソンのお気に入りになったことで、ガーシュイン自信も人気作曲家となる。

1920年代に入ると、文学少年だった兄、アイラ・ガーシュインが作詞をし、弟のジョージ・ガーシュインが作曲という、兄弟のコラボレーションが始まる。
『私の彼氏』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』など、この二人によるポピュラー音楽、ミュージカル音楽のヒットは数多い。

そして1924年、ガーシュインは彼の最大の代表曲とも言える『ラプソディ・イン・ブルー』を発表する。
この曲は、ジャズとクラシックの架け橋とも言える「シンフォニック・ジャズ」として、ジャズとクラシック両方に大きな衝撃を与えた。
有名なのは、当時人気バンドだったホワイトマン楽団とガーシュイン自身による共演。

『ラプソディ・イン・ブルー』で音楽的にも商業的にも大成功をおさめた彼は、1920年代後半頃からオーケストラやオペラの作曲も手がけるようになる。

兄のアイラ・ガーシュインと、作家のデュボース・ヘイワードの協力のもとに、1935年に発表した『ポーギーとべス』は、黒人社会の風俗をリアルに描き出したフォーク・オペラ」。
出演者が全て黒人という、当時にしては革新的とも挑戦的とも言えるキャストで演じられた。

人種差別が強く残る当時、初演時はたいした反響は得られなかったが、作品の質の高さとリアリティが徐々に評判を呼び、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。
なかでも、劇中で歌われる『サマー・タイム』は、ジャズ・ブルースの名曲。
ポピュラー音楽のスタンダードナンバーとして、世界中で愛され続けている。

1937年7月11日、ガーシュインは脳腫瘍のためハリウッドで帰らぬ人となる。
享年38歳。
死ぬ直前に「頭の中で何かが焼けるような音がしてから、自由が利かなくなった。」と語っていることから、後の医学では、くも膜下出血ではなかったかと指摘されている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ホワイトマン楽団とガーシュインの珠玉の共演『ラプソディ・イン・ブルー』です。

この曲には「シンフォニック・ジャズ」という形容詞が使われ、ジャズとクラシックの架け橋となった名曲です。

おかげでガーシュインは、ジャズファンからはジャズの作曲家だといわれ、クラシックファンからはクラシックの作曲家だといわれ、現在でもこの種の議論をたまに耳にするほどです。

『ラプソディ・イン・ブルー』が書かれた1924年、ガーシュインがすんでいたニューヨークの街では、ハーレム・ルネッサンスと呼ばれる黒人文化が、大輪の花を開き始めていました。

ハーレム・ルネッサンスについては、世界最初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』の項でも軽く触れましたが、被差別階級だった黒人の地位と権利の向上を明確に掲げた、社会的文化革命のスタート地点です。

このハーレム・ルネッサンスは、1929年に始まる世界大恐慌を持って終了とされていますが、その思想は、後の公民権運動やブラックパワー・ムーブメントにも大きな影響を及ぼしています。

ハーレム・ルネッサンスが世に輩出した偉人、才人は数多く、さわりだけでも以下のような名が上げられます。

W・E・Bデュボイス(政治指導者)
黒人として、始めてハーバード大学から博士号を取得。
公民権運動の指導者でもあり、全米黒人地位向上協会を創立。

マーカス・ガーベイ(政治指導者)
黒人民族主義の指導者。
世界黒人開発協会を設立。
ジャマイカの20ドルコインの肖像画にもなっている。
レゲエ・ミュージックの元祖とも言われている。

ラングストン・ヒューズ(作家)
黒人文化や風俗をとらえ、普遍的人間像を描いた。
人種差別や女性軽視などに直接訴えかける作品も多い。

ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン(作家)
黒人文化を讃え、人種差別問題を社会に訴えた。

ジャック・ジョンソン(プロボクサー)
黒人初のボクシング世界チャンピオン。

他にも、作家のジェシー・フォーセット、ルドルフ・フィッシャー、美術家のジャコブ・ローレンス、チャールズ・アルストン、俳優のチャールズ・ギルピン、ポール・ロブソンなど、このスペースではとても書ききれないほどの著名人が出ています。

音楽の世界では、世界初のブルース・レコードのメイミー・スミス、ベルースの女帝ベッシー・スミス、コットン・クラブの看板奏者デューク・エリントン、ジャズの巨人ルイ・アームストロングなどが代表格といえるでしょう。

また、ジャズ史上最高の女性ボーカルの一人といわれるビリー・ホリデイ、13回ものグラミー受賞を誇るエラ・フィッツジェラルド、バップの歌姫サラ・ボーンなどは、黒人女性という観点から見ても、ハーレム・ルネッサンスの影響を大きく受けているといえます。

そして、このジョージ・ガーシュイン。

ガーシュイン自身は白人で、ロシア系のユダヤ移民という家庭に生まれました。
白人とはいえ、ユダヤ系移民の家庭は貧しいものが多く、ガーシュインよりやや後に出てくるスウィングの王様ベニー・グッドマンや、映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグなども、貧しいユダヤ系移民の出身です。

ガーシュインが黒人音楽であるジャズに傾倒したのは、同じく貧困階級にありながら、エネルギーと創造性に溢れる黒人文化が、よほど魅力的だったのかもしれません。

そして、世界で初めてジャズのコンサートを開いたり、黒人だけのオペラを創作するなど、その活動は黒人中心のハーレム・ルネッサンスの名に恥じないほど革新的で、歴史的にも意味のあるものものでした。

ハーレム・ルネッサンスに始まり、公民権運動やブラックパワー・ムーブメントを経て、現在も音楽史やエンターテイメント界に燦然と輝く黒人音楽や黒人文化。
しかし、現在の形にたどり着くには、想像を絶する困難と、長い長い道のりがありました。

このブログは、その長く険しい道のりを一つ一つ追いかけているものだと言えます。

それではお聞きください。
1927年の演奏です。

ジョージ・ガーシュインとホワイトマン楽団で
『ラプソディ・イン・ブルー』

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