2010年2月1日月曜日

1927年 『マッチボックス・ブルース』 ブラインド・レモン・ジェファーソン




ブラインド・レモン・ジェファーソン(Blind Lemon Jefferson 本名レモン・ヘンリー・ジェファーソン 1893年9月24日~1929年12月12日?)は、米国テキサス州出身のブルース、ゴスペルシンガー&ギタリスト。

彼自身はカントリー・ブルースに分類されるが、彼の楽曲の持つポテンシャルや後進への影響を考慮し、「テキサス・ブルースの父」と称される。

ブラインド・レモン・ジェファーソンは、テキサス州の貧しい小作人の家に、ブラインド(盲目)で生まれた。
生年月日は、役所の記録から1893年10月26日ということになっているが、これは彼の父が後になって与えた役所登録用の誕生日で、正確な生年月日はわかっていない。

ジェファーソンは10代前半でギターを弾き始め、テキサス州のイースト・テキサスという町で路上演奏をしていた。
彼の少年時代を知るいとこが、後年語っている。

「仲間達が女の尻を追い回したり、ブートレッグを売りさばいたりしてる中で、あいつは一人で歌っていた。夜の8時頃から、夜が明ける頃まで、仲間達がみんな帰っちまった後でも、あいつは一人、路上に座ったままで、ずーっと歌っていたよ。」

1910年代前半頃、演奏旅行でテキサス州ダラスを訪れた際に、後にブルースやアメリカン・フォークのジャンルで鬼才として知られるレッド・ベリーに出会う。
その頃ジェファーソンは、テキサスで最も革新的なアーティストの一人となっており、レッド・ベリーは一も二もなくジェファーソンに傾倒する。

また、目の見えないジェファーソンの手を引き、ダラスの町を案内して回る少年がいた。
少年はジェファーソンからギターの弾き方を学び、ブルースの何たるかを学んでいた。
幼い頃のTボーン・ウォーカー、テキサスブルースのカリスマとなる男である。

ブラインド・レモン・ジェファーソンの名での初レコーディングは、1926年の『ブースター・ブルース」と『ドライ・サザン・ブルース』。
その後3年の間に100曲近いレコーディングをし、43作を発表するが、残念ながら初期のレコーディングは録音状態が非常に悪く、聞くに堪えないものが多い。

彼は1927年に、代表曲となる『マッチボックス・ブルース』と『ブラックスネイク・モーン』を、1928年に『シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケップト・クリーン』を発表。
この3曲は、後世の音楽に強い影響力を残したとして知られ、ビートルズ、カール・パーキンス、ボブ・ディラン、グレイトフル・デッドなど、ブルース以外のミュージシャンからも幅広くカバーされている。

キャリアも充実し、結婚して子供もいたジェファーソンは、1929年、嵐のシカゴで遺体で発見される。
彼の突然の死には謎が多く、死亡時間も死亡原因も、何一つ正確なことはわかっていない。
心臓麻痺だった、毒殺された、犯罪事件にかかわっていたなど数々の逸話があるが、どれも憶測の域を出ていない。

こうして、実際に数々のミュージシャンを育て上げた「テキサス・ブルースの父」は、遺体となって故郷テキサスに帰った。
彼は最初ノーザン・二グロ・セメタリーという粗末な黒人専用墓地に埋葬されたが、2007年、彼の墓は「ブラインド・レモン・記念墓地」と名づけられ、自身の代表作『シー・ザット・マイ・グレイブ・イズ・ケップト・クリーン(俺の墓がきれいなままか見ていてくれ)』で望んだとおりの、美しい姿で残されている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ブラインド・レモン・ジェファーソンの『マッチボックス・ブルース』です。

この曲のオリジナルは1927年ですが、録音状態があまりいいとはいえないため、この動画の音源は再録音を行ったものを使用しています。

さて、「テキサスブルースの父」と、しばし称されるブラインド・レモン・ジェファーソン。
しかし、彼のCDボックスセットを見ると、『キング・オブ・カントリーブルース』と命題されています。

ここで当然、「え?この人のジャンルは、テキサスブルースなの?カントリーブルースなの?」という疑問が生まれます。

では、テキサスブルースとカントリーブルースの違いについて説明しましょう。
かなりマニアックな話になってしまいますが・・・

1936年、ギブソン社が世界初のエレキギター「ES150」を発表するまでは、ギターといえば当然アコースティックでした。
このアコースティックギターを使った初期のブルースの総称を、カントリーブルースといいます。

1936年といえば、ブルースが成立してからすでに30年以上の時が経過していますから、一口にカントリーブルースといっても、「デルタブルース」「テキサスブルース」「イースタン(バイドモント)ブルース」など、すでに色合いの違う様々なブルースが存在していました。

上記3つのブルースの違いは後々説明しますが、それぞれの名称が地域によって分けられていることにお気づきでしょうか?

これがカントリー(国、田舎)ブルースの名称の由来で、代表するアーティストの出身地で分けられています。

いわば「ご当地ブルース」とでも言うべきもので、音楽のジャンルよりも地域分けを目的とした名称です。

では、テキサスブルースを例にとって見てみましょう。
テキサス・ブルースの代表格、演奏スタイル、ジャンルを表にすると下のようになります。

ブラインド・レモンジェファーソン
(アコースティック、弾き語り、カントリーブルース)

ライトニン・ホプキンス
(アコースティック、弾き語り・バンド、カントリーブルース・モダンブルース)

Tボーン・ウォーカー
(エレキギター、バンド、モダンブルース・ブルースジャズ)

スティービー・レイ・ヴォーン
(エレキギター、バンド、モダンブルース・ブルースロック)

このように、同じテキサスブルースと呼ばれる人たちでも、楽器、演奏形態、ジャンル共にばらばらです。
また、エレキギターを弾くTボーンやレイヴォーンは、カントリーブルースにすら含まれません。

では、ご当地ブルースは出身地のみを意味し、音楽的色合いの違いはないのでしょうか?

答えは、「音楽的違いも、大有り」です。

世界初のブルースレコードの発売は1920年、米国のラジオの全国放送の開始が1926年です。

世界初のブルースの楽譜は1912年に発売されましたが、初期のブルースミュージシャンは楽譜が読めない者がほとんどで、「人と人とのふれあい」のみが、ブルース伝達の手段でした。

交通網にも限界があった昔のことですから、当然、地域による特色の違いが生まれます。

テキサスブルースに関していえば、初期のテキサスブルースは、同時代の他のブルースよりも比較的わかりやすく、メロディアスで、ブルースの基本である3コード12小節の構成から大きく逸脱することもありません。

近年のエレキギターを使ったテキサスブルースでは、熱狂的で派手なプレイやパフォーマンスが多く、いぶし銀で渋いプレイが多いシカゴブルースとよく比較されます。

米国テキサス州は、日本の1.5倍の面積を持つ広大な州です。

その歴史も独特で、もともとメキシコ領だったテキサスは、1836年に独立宣言をし、一時独立国となります。
また、独立国となる1836年までは奴隷制を禁止しており、独立後約30年は奴隷制を採用するものの、奴隷解放も南部の州ではいち早く進みました。

アメリカ領となった現在でも、テキサス州出身の人々は「テキサン」と呼ばれ、独特の風俗と気質を保っています。
また、テキサス州のみに適応される法律や条例も存在しています。

こういった地理的環境や歴史的背景が、音楽に与えた影響はとても大きいでしょう。
特に、奴隷制の中心地であり、人種差別が強く、デルタブルースの故郷であるミシシッピ州デルタ地帯との比較は、とても興味深いものがあります。

このように、ブルースに限らず、他の音楽も他の文化も、地理的環境、歴史的背景、テクノロジーの発展などにより、大きく姿を変えます。

ジャンルによる違い、人の流れ、歴史による変化などを考慮すると、文化の枠組みのようなものが見えてきます。

さて、他に地域名で示されるブルースとしては、シカゴブルース、UKブルースなどがあり、日本にも日本特有のブルースがあります。

一つのジャンルの中で、地理的、歴史的変化を追いかけるのは、一つのとても楽しい音楽の聴き方です。
うーむ、やはり、少々マニアックすぎるでしょうか??(笑)

*現在「カントリー」と呼ばれているアメリカの音楽と、カントリーブルースは、基本的に違います。
しかし、「カントリー」自体は1930年ごろに発生した音楽ですが、起源を遡ると古い欧州民謡にたどり着くなど、これまた歴史のある音楽です。
もちろん、ブルースとの歴史的、地理的接点もあり、互いに影響しあっていますので、そのお話は後ほど。。。


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2010年1月29日金曜日

1924年 『ラプソディ・イン・ブルー』 ジョージ・ガーシュイン



ジョージ・ガーシュイン(1898年9月26~1937年7月11日)は、ニューヨーク出身のピアニスト/作曲家。

ガーシュインをクラシックの作曲家として習った方は多いと思うが、実は600曲にのぼる作品群のうち、純粋なクラシックとして聴けるものは20曲ほど。
比べて、歌曲(ポピュラー音楽)の作品は500曲を越す。

このジョージ・ガーシュイン、ブルースを語る際にはたいして重要視されないものの、黒人音楽全般を語る上では非常に重要な存在。

ガーシュイン自身は白人でありながら、黒人音楽(主にジャズ)に傾倒し、ジャズがクラシックに影響を与えるようになったのは、このガーシュインからと言われている。

それまで、主に音楽的教養のない黒人達が、知識よりも感性を頼りとした即興演奏でジャズを演奏していたのに対し、ガーシュインは高度な知識とクラシック的技術をもちいて、音楽理論としてのジャズを大きく発展させた。

そして、ジャズやブルースがパーティ、酒場、売春宿などのBGMにすぎなかったのに対し、純粋に音楽を楽しむ「コンサート」という形でジャズを演奏したのは、このガーシュインが最初である。

ロシア系ユダヤ人移民の貧しい家に生まれたガーシュインは、小学生の頃から音楽に親しんで育った。

両親はまず、ガーシュインの兄のアイラにピアノを買い与えたが、文学少年だった兄アイラはピアノに関心を示さず、いつしか、弟のジョージが自分のもののようにしてしまった。

ジョージ・ガーシュインの名が広く知られるようになったのは、1919年の歌曲『スワニー』のヒットから。
人気歌手のアル・ジョンソンのお気に入りになったことで、ガーシュイン自信も人気作曲家となる。

1920年代に入ると、文学少年だった兄、アイラ・ガーシュインが作詞をし、弟のジョージ・ガーシュインが作曲という、兄弟のコラボレーションが始まる。
『私の彼氏』『バット・ノット・フォー・ミー』『アイ・ガット・リズム』など、この二人によるポピュラー音楽、ミュージカル音楽のヒットは数多い。

そして1924年、ガーシュインは彼の最大の代表曲とも言える『ラプソディ・イン・ブルー』を発表する。
この曲は、ジャズとクラシックの架け橋とも言える「シンフォニック・ジャズ」として、ジャズとクラシック両方に大きな衝撃を与えた。
有名なのは、当時人気バンドだったホワイトマン楽団とガーシュイン自身による共演。

『ラプソディ・イン・ブルー』で音楽的にも商業的にも大成功をおさめた彼は、1920年代後半頃からオーケストラやオペラの作曲も手がけるようになる。

兄のアイラ・ガーシュインと、作家のデュボース・ヘイワードの協力のもとに、1935年に発表した『ポーギーとべス』は、黒人社会の風俗をリアルに描き出したフォーク・オペラ」。
出演者が全て黒人という、当時にしては革新的とも挑戦的とも言えるキャストで演じられた。

人種差別が強く残る当時、初演時はたいした反響は得られなかったが、作品の質の高さとリアリティが徐々に評判を呼び、現在ではアメリカ音楽の古典となっている。
なかでも、劇中で歌われる『サマー・タイム』は、ジャズ・ブルースの名曲。
ポピュラー音楽のスタンダードナンバーとして、世界中で愛され続けている。

1937年7月11日、ガーシュインは脳腫瘍のためハリウッドで帰らぬ人となる。
享年38歳。
死ぬ直前に「頭の中で何かが焼けるような音がしてから、自由が利かなくなった。」と語っていることから、後の医学では、くも膜下出血ではなかったかと指摘されている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ホワイトマン楽団とガーシュインの珠玉の共演『ラプソディ・イン・ブルー』です。

この曲には「シンフォニック・ジャズ」という形容詞が使われ、ジャズとクラシックの架け橋となった名曲です。

おかげでガーシュインは、ジャズファンからはジャズの作曲家だといわれ、クラシックファンからはクラシックの作曲家だといわれ、現在でもこの種の議論をたまに耳にするほどです。

『ラプソディ・イン・ブルー』が書かれた1924年、ガーシュインがすんでいたニューヨークの街では、ハーレム・ルネッサンスと呼ばれる黒人文化が、大輪の花を開き始めていました。

ハーレム・ルネッサンスについては、世界最初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』の項でも軽く触れましたが、被差別階級だった黒人の地位と権利の向上を明確に掲げた、社会的文化革命のスタート地点です。

このハーレム・ルネッサンスは、1929年に始まる世界大恐慌を持って終了とされていますが、その思想は、後の公民権運動やブラックパワー・ムーブメントにも大きな影響を及ぼしています。

ハーレム・ルネッサンスが世に輩出した偉人、才人は数多く、さわりだけでも以下のような名が上げられます。

W・E・Bデュボイス(政治指導者)
黒人として、始めてハーバード大学から博士号を取得。
公民権運動の指導者でもあり、全米黒人地位向上協会を創立。

マーカス・ガーベイ(政治指導者)
黒人民族主義の指導者。
世界黒人開発協会を設立。
ジャマイカの20ドルコインの肖像画にもなっている。
レゲエ・ミュージックの元祖とも言われている。

ラングストン・ヒューズ(作家)
黒人文化や風俗をとらえ、普遍的人間像を描いた。
人種差別や女性軽視などに直接訴えかける作品も多い。

ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン(作家)
黒人文化を讃え、人種差別問題を社会に訴えた。

ジャック・ジョンソン(プロボクサー)
黒人初のボクシング世界チャンピオン。

他にも、作家のジェシー・フォーセット、ルドルフ・フィッシャー、美術家のジャコブ・ローレンス、チャールズ・アルストン、俳優のチャールズ・ギルピン、ポール・ロブソンなど、このスペースではとても書ききれないほどの著名人が出ています。

音楽の世界では、世界初のブルース・レコードのメイミー・スミス、ベルースの女帝ベッシー・スミス、コットン・クラブの看板奏者デューク・エリントン、ジャズの巨人ルイ・アームストロングなどが代表格といえるでしょう。

また、ジャズ史上最高の女性ボーカルの一人といわれるビリー・ホリデイ、13回ものグラミー受賞を誇るエラ・フィッツジェラルド、バップの歌姫サラ・ボーンなどは、黒人女性という観点から見ても、ハーレム・ルネッサンスの影響を大きく受けているといえます。

そして、このジョージ・ガーシュイン。

ガーシュイン自身は白人で、ロシア系のユダヤ移民という家庭に生まれました。
白人とはいえ、ユダヤ系移民の家庭は貧しいものが多く、ガーシュインよりやや後に出てくるスウィングの王様ベニー・グッドマンや、映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグなども、貧しいユダヤ系移民の出身です。

ガーシュインが黒人音楽であるジャズに傾倒したのは、同じく貧困階級にありながら、エネルギーと創造性に溢れる黒人文化が、よほど魅力的だったのかもしれません。

そして、世界で初めてジャズのコンサートを開いたり、黒人だけのオペラを創作するなど、その活動は黒人中心のハーレム・ルネッサンスの名に恥じないほど革新的で、歴史的にも意味のあるものものでした。

ハーレム・ルネッサンスに始まり、公民権運動やブラックパワー・ムーブメントを経て、現在も音楽史やエンターテイメント界に燦然と輝く黒人音楽や黒人文化。
しかし、現在の形にたどり着くには、想像を絶する困難と、長い長い道のりがありました。

このブログは、その長く険しい道のりを一つ一つ追いかけているものだと言えます。

それではお聞きください。
1927年の演奏です。

ジョージ・ガーシュインとホワイトマン楽団で
『ラプソディ・イン・ブルー』

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2010年1月26日火曜日

ローリング・トゥエンティス(咆哮する20年代)



今回アップした動画は、『チャールストン』という1920年代に流行したダンスの映像です。

チャールストンは1923年に大ヒットしたミュージカル『ランニング・ワイルド』で使われ、全米をはじめ、世界中に大ブームを巻き起こしました。
そしてこのチャールストンの踊り、音楽、白黒の映像は、「古きよきアメリカ」という形容詞でアメリカを語る際、最もよく使われる手法となりました。

それだけチャールストンの流行は、1920年代のアメリカを象徴する出来事だったのです。

1920年代、第一次世界大戦から世界大恐慌までの期間は「Roaring 20's/ローリング・トゥエンティス」 (咆哮する20年代)と呼ばれ、アメリカ社会における狂騒と、アメリカ文化における変革の時代でした。

その社気的要因としては、第一次世界大戦の勃発、戦勝による軍需景気、禁酒法の施行、マフィアの台頭などが挙げられます。

1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ニューオリンズが軍港化され、歓楽街が閉鎖されます。
これによりニューオリンズの音楽家達は仕事の場を失い、シカゴやニューヨークなど北部の大都市に移住し、自然と黒人音楽の中心地も北部へと移動するのです。
また一般の黒人達も、差別の強い南部を抜け出し、軍需景気に沸く北部の街々に多く移住しました。

アメリカが第一次世界大戦に勝利すると、多額の賠償金により未曾有の好景気が始まります。
ニューヨークやシカゴといった大都市には、歴史上初めての「キャリアウーマン」が現れ、女性の社会進出が進みました。

中でも「フラッパー」と呼ばれる女性達は、おかっぱ頭に真っ赤な口紅、シャネルがデザインした最新のファッションに身を包み、酒を飲みタバコを吸い、つなぎの水着で海水浴に出かけ、ダンスホールでは足を高々と上げてチャールストンを踊りました。

この軍需景気は、わずかながら貧困層である黒人社会にも影響し、黒人層から出た多くの才人たちは、やがてニューヨークで「ハーレム・ルネッサンス」の花を開かせます。
この「ハーレム・ルネッサンス」には、黒人達に音楽鑑賞や読書をする余裕が生まれたこと、白人の富裕層が無償で黒人芸術家をバックアップしたことなどが、要因として欠かせません。

また、1920年に施行された禁酒法は、密造酒の製造や地下酒場の営業の原因となり、マフィアに大きな資金源を与える結果となりました。
マフィア達は、自分の地下酒場にお気に入りのミュージシャンをスカウトし、これがジャズやブルースの発展に大きな影響を与えます。
なかでも、アル・カポネ率いるシカゴ・マフィアは強大な力を持ち、シカゴ・ジャズの黄金時代が始まり、シカゴ・ブルースは芽生えの時期を迎えます。

同じくシカゴの街では、ブルースと教会音楽の融合が進められ、新たな教会音楽である「ゴスペル・ミュージック(ゴスペル・ブルース)」が生み出されます。
私達が普段ゴスペルと呼んでいる音楽の始まりです。

文学の世界では、『老人と海』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』などの著者、ノーベル文学賞受賞のヘミングウェイや、『偉大なるギャツビー』の著者スコット・フィッツジェラルドなど、アメリカ文学史において欠かせない作品・作家が数多く登場しました。

そして、それらの社会的、芸術的活動を支援するかのごとく、1920年にペンシルバニア州ピッツバーグにKDKAという世界初のラジオ局が登場します。
ラジオの普及はアメリカ全土に一気に広がり、1926年にはNBCが全国放送を開始します。
これが、アメリカ音楽の発展や普及に、大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

この他にも、1920年代には政治的、社会的、文化的に数多くの変革が起こりました。
とてもこのスペースで書ききれるものではありませんが、それらの多くは「新しい時代」を予感させるものでもありました。

マフィアが真昼間からぶっ放つピストルの音と、ブルース、ジャズ、ゴスペルなどの黒人音楽が、まさに全米に「咆哮」した1920年代。
それを象徴するような、『チャールストン』の大流行。
ほんの一部ではありますが、古きよきアメリカをご堪能ください。

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