2009年11月24日火曜日

1923年 『ダウン・ハーテッド・ブルース』 ベッシー・スミス



1920年、メイミー・スミスがブルースとして世界最初のレコード『クレイジー・ブルース』をリリースし大ヒットすると、黒人女性ブルース・シンガーに世間や業界の注目が集まり始めた。

こうした時代の波に乗り、ベッシー・スミスは1923年、『ダウン・ハーテッド・ブルース』でデビューし、大ヒットを記録する。

テネシー州チャタヌーガの路上で、その日のパンを得るために路上演奏していた少女が、ついにスターダムへの階段を駆け上がるのだ。

1920年代に始まる世界大恐慌でアメリカ全体が低迷している間にも、ベッシーは着々と成功の階段を上り、ついにミュージカルの聖地ブロードウェイでの成功を手中にする。

そして、1930年代に入りスイングが大流行すると、ベッシーは「ディキシーランドの神様」ルイ・アームストロング、「ビッグバンドの先駆け」フレッチャー・ヘンダーソン、「スイングの王様」ベニー・グッドマンらと共演する。

こうしてベッシーの人気と地位は不動のものとなり、彼女はいつしか「ブルースの女帝」と呼ばれるようになった。
彼女の声量は「建物も揺るがすほど」といわれ、情感溢れる歌声は彼女の死後70年以上を過ぎた現在でも、「ブルース史上最も偉大な女性ボーカリスト」と言う専門家も多い。

ベッシー・スミスは、まさにブルース界のシンデレラであった。

しかし、ベッシーの死は突然に、そしてあまりにも悲しい形で訪れた。

1937年9月26日、ルート61でベッシーは交通事故に遭い、重傷を負う。

目撃者がすぐ救急車を呼び、ベッシーは急遽搬送されたが、なんと市内の白人用の病院が、黒人であるベッシーの収容を拒否したのだ。

市内をたらいまわしにされ、出血多量のため手遅れとなったベッシーは、翌日、事故現場から遠く離れたミシシッピ州の病院で息を引き取る。

ブルース界最大の才能と、43歳という若い命が永遠に失われた瞬間だった。

実際に救急車を呼んだ目撃者は、事故当時のベッシーはまだ意識があったと証言している。
しかも、その目撃者に医学の知識があったことから、応急手当も完璧だったという。

ベッシーの本当の死因は交通事故ではなく、人種差別だったのだ。

彼女の代表作はデビュー作の『ダウン・ハーテッド・ブルース』、ベッシーの代名詞『セントルイス・ブルース』、1928年の大ヒット曲『エンプティ・ベッド・ブルース』などが上げられる。

上記3作品は、後世に残したい名曲“グラミー・ホール・オブ・フェイム”を受賞。
その他、彼女には数百曲の録音があるといわれるが、聴けるものと聴けないものがあり、復刻版の製作が続けられている。

♪ ♪ ♪

さて、今回アップした動画は「ブルースの女帝」ベッシー・スミスのデビュー曲『ダウン・ハーテッド・ブルース』です。

本文でもご紹介したとおり、ベッシーを本当の意味で死に追いやったのは、交通事故ではなく人種差別でした。
しかしベッシーが死亡した1937年当時、ベッシーの収容を拒否した病院側の態度は、決して「違法」ではなかったのです。

ジム・クロウ法
1876年から1964年にかけて、アメリカ合衆国南部の州に存在した人種差別法。
アフリカン・アメリカン(アメリカ黒人)、ネイティブ・アメリカン(インディアン)、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、ブラウン(黒人と白人の混血)を対象に、法律、権利、教育、生活態度にいたるまで、白人との差別化を明記した法律。
州によって内容は異なり、それらを総称してジム・クロウ法という。

内容としては、主にこんな感じです。

黒人の定義。先祖四代に遡り、黒人の血が一滴でも入っていれば、黒人とみなす。
黒人と白人の結婚、交際の禁止。一つの部屋で夜を共にするのは、性行為の有無にかかわらず違法。
白人女性看護師のいる病院には、黒人男性の立ち入り禁止。
黒人学校と白人学校の分離。
バスや電車の座席、車両の分離。レストランや公共施設の分離。
社会的平等や、異人間種結婚を推奨する出版物、集会、講演、宣伝、その他の活動の禁止。

上記以外にもにもさまざまな取り決めがありましたが、違反者には厳しい罰則や罰金が科せられました。

音楽業界においても、人種差別は同様でした。

差別の強い南部を逃れ、多くのアーティストが北部へ移住しました。
演奏しているのは黒人なのに、ジャケット写真は白人というレコードが売り出されました。
ルイ・アームストロングほどの大物が、ツアー先でホテルに泊まれず車の中で寝た、ということもありました。
ナット・キング・コールほどの優れた歌手が、歌ってる最中に顔にいたずら書きをされる、ということもありました。

そして極め付けが、このベッシー・スミスの死です。

1964年7月2日に公民権法が制定され、ジム・クロウ法は即時廃止となりました。
しかしそれまでは、有名無名にかかわらず、ほぼ全ての黒人アーティストが人種差別の被害者でした。
それによって失われた才能は、もはや統計を取れるレベルではなく、、取り戻すすべもありません。

国際化、グローバル化が叫ばれる現在、音楽はユニバーサル・ランゲージ(世界言語)であると言われています。
それは、日本語や英語などの言語を理解しない間柄でも、同じ楽しみや悲しみ、感動などを共有できるからです。

古いブルースのレコードを聴くと、当時の黒人達の嘆きや悲しみが伝わってきます。
自分のすぐ隣にいる人を。自分とちょっと違うからと言って差別するのは、世界へ通じる心の窓を閉じてしまうのと同じくらい、悲しく、浅はかなことに感じます。
だって、こんなに時を隔て、海を隔て、言語も歴史も文化もまったく違う人の歌う歌が、こんなに心にしみるのですから。

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2009年11月19日木曜日

1920年 世界初のブルースレコード『クレイジー・ブルース』




メイミー・スミス(1883‐1946 オハイオ州出身)は、世界で最初にボーカル・ブルースを録音し発表した、ミュージカル・ダンサー&シンガー。

1920年発表の『クレイジー・ブルース』は、歴史的文化財としてグラミー・ホール・オブ・フェイムに名を連ね、米国立国会図書館に音源が保存されている。

1920年8月10日、メイミーは『クレイジー・ブルース』『イッツ・ライト・ヒア・フォー・ユー』などを含む数曲を録音し、これらは音楽史上初めてのブルースのレコードとなっただけでなく、史上初めて黒人女性が録音した音源となった。

『クレイジー・ブルース』は、発売から1年以内に販売枚数100万枚を超えるという、当時としては驚異的なセールスを記録し、彼女の成功は社会現象となる。

人種差別の真っ只中にあり、女性軽視が当たり前のように存在していた時代でのメイミーの活躍は、同じ女性や有色人種から大きな支持を得た。

やがてマスコミ、レコード会社、音楽興行側はこういった人たちの存在を無視できなくなり、それまでほぼ白人専用だったホールや劇場に有色人種用の席を増設するようになった。
また、「演奏は黒人だが写真は白人」ということが横行していたレコードのジャケットに、演奏者である黒人本人を使うようになっていった。

そしてこのメイミーの成功を皮切りに、黒人女性シンガーをフィーチャーしたブルースの黄金時代が始まるのだ。

彼女の代表作は、なんと言っても世界最初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』だが、1929年発表のサウンド・フィルム『ジェイルハウス・ブルース』も、音楽映画やミュージック・ビデオの先駆けという意味でとても興味深い。

世界で最初のブルースのレコード、世界で最初に音源を残した黒人女性、そして「ブルースの女王」の称号と、数々の栄光をその人生に刻んだメイミー・スミスは、1946年、ニューヨークで63年の輝かしい人生を終える。


♪ ♪ ♪


今回アップした動画は、世界初のブルースのレコード『クレイジー・ブルース』のオリジナル音源です。
動画といっても、この頃プロモーション・ビデオなどは存在していないので、写真と音源だけですが。

このメイミー・スミスの『クレイジー・ブルース』は、世界初のブルースのレコードとしてだけでなく、いろんな意味で社会に影響を与えました。

人種差別や女性軽視が、まだ当然のように存在していた1920年代。

芸術や文化は、黒人達が自分達の存在とその意義を、社会に訴える有効な手段でした。
そして「成功する」ということは、「黒人が白人より劣った人種ではない」ということを、証明する意味を持っていたのです。

黒人であるメイミーの活躍は、黒人の持つポテンシャルを見事に証明しました。

また、女性であるメイミーの成功は、ベッシー・スミスを代表とする女性ブルースの黄金時代を築き、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンなど、次世代の女性エンターテイナーが活躍する下地を作りました。

このように1920年代は、才能のある黒人や女性達が多く世に輩出されます。

そしてこの動きは、元奴隷やその子孫が結集して住んだ、ニューヨークのハーレムに多く見られました。

これが、1919年から1930年代前半まで続く「ハーレム・ルネッサンス」です。

唯一無二の黒人文化が花開いたハーレムは、新しい文化の一大発信地となり、それまで白人を対称にしていた「文化」という存在に、大きな革命を起こすのです。

また、ハーレム・ルネッサンスは、黒人の知性、才能、努力による、人種差別に対する文化的抵抗でもありました。

そして、黒人の地位と人権の向上を明確にうたった最初の社会的な動きであり、その思想は1950年代に始まる公民権運動や、ブラックパワー・ムーブメントにも大きな影響を与えます。

教育や仕事、公衆トイレやバスの席順にいたるまで、あらゆることで黒人達を虐げてきた人種差別。
貧困は貧困を生み、教育や仕事の欠如は黒人達の未来を闇色に塗りつぶすものでした。

そんな中、ブルースという黒人音楽のレコード化と、メイミー・スミスという黒人女性の成功は、新しい時代を照らす朝日のように、当時の人々には感じられたことでしょう。

では、「世界最初のブルースのレコード」
1920年の録音。
メイミー・スミスで『クレイジー・ブルース』

お楽しみください。

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2009年11月14日土曜日

1919年 第一次世界大戦終結


世界30カ国以上が参戦し、欧州、中東、アジア、アフリカ、北米、太平洋、大西洋、インド洋地域を巻き込んだ第一次世界大戦は、世界の勢力構図と政治形態を大きく変える結果となった。

1917年、ロシア革命が起こり、帝政ロシアが崩壊。
第一次大戦から脱落したロシアは、賠償として勢力化にあったフィンランド、バルト地方、ポーランド、ウクライナなどを割譲。
レーニンを指導者とする、社会主義体制へと向かう。

1917年、中立を保っていた米国の第一次世界大戦参戦。
米国の参戦により均衡が崩れ、ドイツ帝国が崩壊へと向かう。

1918年、ドイツ革命が始まり、ドイツ帝国が崩壊。
同年11月11日、新しく発足したドイツ共和国と、米国、英国を中心とする連合国との間で休戦協定成立。

1919年6月28日、ベルサイユ条約調印により、第一次世界大戦が終結。

世界の構図と勢力図は、第一次大戦によって大きく塗り替えられた。

「帝国主義」が時代遅れになり、「君主制」が消滅した。
ベルサイユ条約により「国際連盟」が発足し、「世界平和」という新しい理念が生まれた。
そして、「社会主義」という新しい体制が始まり、「民主主義」と反目し世界を二分する。

そして、表面上は終結した第一次世界大戦だが、世界中に深刻な爪あとを残した。

オーストリアのハプスブルグ家の追放により、新国家ユーゴスラビアとチェコスロバキアが誕生。
しかし、この両国は国内での民族紛争が続き、やがて分裂する。
そしてその紛争は、現在も続いている。

オスマントルコの崩壊により、アラブ人とユダヤ人が大量流出。
イギリスがアラブ人とユダヤ人双方にパレスチナでの国家建設を約束したことにより、パレスチナ問題へと発展する。
パレスチナとイスラエルは、現在も抗争状態にある。

ドイツへの過剰制裁により、政治、経済両面で様々な問題が発生。
これらは、ナチス・ドイツによる第二次世界大戦への引き金となる。

戦勝国となった日本の国際的地位向上と経済的発展。
これにより、日本のアジア地域での植民地政策がすすみ、太平洋戦争への引き金となる。

こうして、かつてない被害と死傷者を出した「第一次世界大戦」は、約20年後に訪れる人類史上最大の悲劇、「第二次大戦」の要因を世界中にばら撒き、終結した。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ベートーベン交響曲第9番の後半部分です。
前回同様、ブルースとは何の関係ありません。

演奏は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
指揮は、フェルベルト・フォン・カラヤン。

カラヤンは、世界3大オーケストラのベルリン・フィルの音楽監督と、同じく3大オーケストラのウィーン・フィルの芸術監督を兼任し、ベルリン・フィルから「終身主席指揮者兼芸術総監督」という最高栄誉を受けた、20世紀最高の指揮者の一人。

日本にもカラヤンのファンは多く、日本を代表する指揮者、小沢征爾氏の師であり、NHK交響楽団で指揮したこともあります。
また、日本で行われた「あなたが選ぶクラシックの名盤」の投票で、上位30枚のうち28枚がカラヤンの指揮だったということもありました。

他にも、CDの録音時間を『第九』の入る74分に決めた、オーケストラで初めて女性奏者を雇ったなど数々の逸話があるカラヤンですが、実はこの人、とても数奇な人生の持ち主でもあるのです。

フェルベルト・フォン・カラヤン。
1908年4月5日オーストリアのザルツブルグ生まれ。
第一次世界大戦の敗戦国となる、オーストリア帝国で音楽を学びました。

1929年にデビューし、1939年にはドイツのベルリン国立管弦楽団と、イタリアのミラノのスカラ座でオペラの指揮者に就任します。

なんとも輝かしい経歴ですが、1939年といえば第2次世界大戦の2年前。
この時期にカラヤンは、日本と共に3つの敗戦国となる、ドイツとイタリアに本拠地を置くのです。

そして同39年、ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーの主催する演奏会の指揮者に任命されます。

カラヤンの得意とするベートーベンやワーグナーは、同じドイツ出身のヒトラー大のお気に入りでした。
カラヤンは、ヒトラーから「君は神の道具だ」と最大の賛辞を受け、ナチス党員に抜擢されます。

それからというもの、カラヤンのオーケストラはナチス文化の象徴となり、シンフォニーは党員の士気の鼓舞に使われました。

1941年、第二次世界大戦勃発。

ナチスは近隣諸国を蹂躙し、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの大量殺戮を行います。
何百万もの罪のない命が奪われ、運よく生き残った人々も、一生消えない傷を心や体に刻まれました。

そして1945年、第二次世界大戦の終結とドイツの敗戦。
「ナチス」と「ヒトラー」の名は、史上最大の「悪」として歴史に刻まれます。

翌1946年、カラヤンは故郷オーストリアでの演奏会に着手しました。
しかし、ナチス党員であったことが発覚し、占領軍により公開演奏停止処分を受け、その後3年間、カラヤンは迫害を受け続けます。

戦争により、カラヤンは音楽を奪われてしまいました。
人々も、次第にカラヤンを忘れ去っていきました。

しかし、本物の芸術と才能は、カラヤンをこのまま終わりにはしなかったのです。

1948年、再びウィーン・フィルの主席指揮者に就任。
1950年代には、敗戦の傷跡が残るイタリアのミラノ・スカラ座で指揮。
そして1955年には、最大の敗戦国であるドイツのベルリン・フィルで、終身主席指揮者芸術総監督となるのです。

戦後、カラヤンの指揮は変わりました。

格式やしきたりよりも、聞く人と演奏する人を大事にするようになりました。
自分の地位や名声よりも、芸術の向上を第一に考えました。

そして、体調不良に悩まされながらも、芸術の普及と後進の育成のために世界を飛び回り、世界で一番多忙な音楽家となるのです。

カラヤンの芸術に対する執念は、年を負うごとに増していきました。
世界最高の地位にあるカラヤンが、なぜそこまでするのだろうと、人々は噂しました。

あくまで想像に過ぎませんが、もしかしたらカラヤンは、戦争によって奪われたものを取り戻そうとしていたのかもしれません。

それは、「音楽」の本当の姿。

第二次大戦中、カラヤンの音楽は芸術本来の姿を失っていました。
そして敗戦と共に、カラヤンは音楽自体を取り上げらます。

しかし、世界の頂点にいる指揮者も、路上演奏の貧乏ミュージシャンも、音楽家が描く想いは同じだったのです。

「国や戦争のためでなく、芸術や感動のために演奏したい。」

「独裁者(ヒトラー)のためでなく、音楽を愛する人々のために演奏したい。」

カラヤンは、タクトを振り続けました。

タクトの振りすぎにより脊髄をいため、生涯に3度の手術を受けました。
脳梗塞のため、リハーサル中にタクトを落とし、指揮台から落下したこともありました。
晩年には歩行も困難になり、指揮台の回りに柵をめぐらして指揮をしました。

「楽壇の帝王」と称された、20世紀最高の指揮者カラヤン。
しかしその基盤は常に、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアであり、第二次世界大戦の敗戦国ドイツとイタリアでした。

1989年7月16日、カラヤンはこの世を去ります。
地元の教会に、カラヤン自らが用意していたという墓地は、それはそれは質素なものでした。

ザルツブルグ市はカラヤンの功績をたたえ、豪華な墓地の提供を遺族に申し入れました。
しかし、カラヤンの未亡人であるエリエッテ夫人は、「故人の意思ですから」と、市の申し入れを現在も断り続けているといいます。

2009年11月5日木曜日

1914年 第一次世界大戦勃発



1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位後継者が、ボスニアの首都サラエボでセルビア人に暗殺される(サラエボ事件)。
平和交渉は決裂し、同年7月28日、オーストリア政府はセルビアに宣戦布告する。

三国同盟によりオーストリアと同盟関係にあったドイツ帝国は、セルビア支持を表明していたロシア帝国に対し軍事動員の解除を要求するが、ロシア側がこれを拒否。
これによりドイツ政府は、8月2日にロシアに、3日にフランスに宣戦布告をする。

突然の宣戦布告を受けたフランスはイギリスに同盟を求め、ドイツ軍のベルギー侵攻を確認したイギリス政府は、8月4日ドイツに宣戦布告する。
これにより、イギリスを宗主国とするカナダ、オーストラリア、ニュージーランドも参戦することになった。

日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本は、8月23日にドイツに宣戦布告。

同年11月にオスマントルコが、翌1915年にイタリアとブルガリアが参戦。

アメリカ合衆国は、欧州と米大陸の相互不干渉をうたったモンロー主義に基づき孤立を保っていたが、国内で反ドイツ世論が巻き起こり、1917年4月6日ドイツに、12月にオーストリアに宣戦布告。

これにより欧州諸国、アメリカ大陸、太平洋地域を巻き込んだ人類初の世界大戦、第一次世界大戦が勃発した。

♪ ♪ ♪


今回アップした動画は、ベートーベン交響曲第9番。
簡単に言えば、大晦日になると耳にするあの歌、いわゆる第九です。

はっきり言って、ブルースとは関係がありません。

では、なぜこの曲を選んだのかというと、実はこの曲、第一次世界大戦下の日本とドイツをつなぐ、平和の歌だからなのです。

ドイツに宣戦布告した日本は、当時ドイツの植民地であった中国の青島に侵攻し、4700名のドイツ人捕虜を捕獲します。
第二次世界大戦と違い、第一次世界大戦での日本は国際法を遵守し、捕虜の扱いにおいても紳士的だったといいます。

4700名のドイツ人捕虜は、日本国内12箇所の捕虜収容施設に送致されます。
なかでも、徳島県の板東捕虜収容所の待遇はとてもよく、ドイツ兵と地元住民の交流も許されていました。

それまで戦場や収容所にいた人たちが、徳島県の優しい人達との交流を許されたのです。
どれだけ、心と体が休まったことでしょう。

このことにより、ドイツ料理やビールなど、数々のドイツ文化が日本に紹介されます。

そして、このベートーベン交響曲第9番がドイツ人捕虜によって演奏され、日本に初めて紹介されるのです。

やがてこの曲は、いつしか毎年大晦日になると歌われるようになり、日本人はこの曲を聞きながら1年を振り返り、この曲を聴きながら新しい年を迎えるようになりました。

悲しいけれど、第二次世界大戦では、世界最大の戦犯国となる両国です。
しかし、兵士、民間人を問わず、いつの時代も人々の心には「平和への願い」があったはずです。

ベートーベン交響曲第9番。

日本題名『喜びの歌』

この歌が、いつまでもいつまでも『喜びの歌』であり続けられるよう、もう二度と『悲しみの歌』になってしまわぬよう、そんな願いをこめて、今回この動画をアップしました。

2009年11月2日月曜日

1914年 『セントルイス・ブルース』 WCハンディ



「ブルースの父」と称されるWCハンディが、1914年に発表した名曲『セントルイス・ブルース』。
彼の最大のヒット曲であり、おそらく最大の代表作だろう。

この曲を愛するファン&ミュージシャンは多く、カバーされ録音されたものは100を軽く超える。

代表的なものだけでも、ODJB、ベッシー・スミス、ルイ・アームストロング、キャブ・キャロウェイ、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、チェット・アトキンス、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ、ボストン・ポップス・オーケストラと、名を上げればきりがない。

中でも、1925年に録音されたベッシー・スミスとルイ・アームストロングの共演は、アメリカ音楽史に残る名演とされている。

映画のサントラとしても多く利用され、1929年、39年、41年、58年と4回にわたって製作された映画、その名も『セントルイス・ブルース』や、最近では『キル・ビル Vol.2』でもフィーチャーされている。
ディズニー映画の『ブルー・リズム』のなかで、ミニー・マウスが歌うバージョンもかわいらしい。

16小節と12小節のパートがあるこの曲は古典ジャズのスタンダードにもなっており、プロ、アマを問わず、ジャズを網羅しようとする中では必須アイテムだ。

また、ボーカル入りのバージョンで歌われる冒頭の歌詞、「夕暮れ時に、日が沈んでいくのを見るのが嫌いなの」という歌詞は、当時の流行語になったほどの名フレーズだ。

現在、ミズーリ州セントルイス市の擁するアイスホッケーのチームも、この曲にちなんで『セントルイス・ブルース』と名づけられている。

セントルイスで出会った、夫を失って嘆き悲しむ女性がヒントになったと、ハンディ自らが語っている。

WCハンディがこの世を去ったのは、1958年。
ハンディがミシシッピ州のタトワイラー駅でブルースと出会ってから、55年の月日が流れている。

その間には、ロバート・ジョンソン、Tボーン・ウォーカー、マディ・ウォーターズ、BBキング、その他、数多くのブルース・ミュージシャンがデビューし、スターダムへの階段を駆け上がっていった。

その栄光の源には、WCハンディと、名も無き南部の黒人が歌うブルースとの出会いがあった。

1958年3月28日、ニューヨークのハーレムで行われた彼の葬儀には2万5千人を越える参列者が訪れ、15万人を超える人々が教会周辺のストリートに集まり、彼の死を惜しんだ。

現在この「ブルースの父」は、ニューヨーク市ブロンクス地区にあるウッドローン・セメタリーという墓地で、静かに眠っている。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、1929年発表の映画『セントルイス・ブルース』から、「ブルースの女帝」といわれたベッシー・スミスが歌うワンシーン。

音質的には良いとはいえませんが、ベッシーが歌う姿が見られる貴重な動画なので、これを選びました。

他にベッシーが歌う「セントルイス・ブルース」を聴くなら、やはり1925年のルイ・アームストロングとの共演がおススメです。

今(2009年)からちょうど80年前に録音されたものですが、ベッシーの情感豊かな歌声と、『セントルイス・ブルース』の美しくも物悲しげなメロディを、感じていただけたら幸いです。

2009年10月29日木曜日

1913年 ベッシー・スミス始動

Bessie Smith

ベッシー・スミス(1894年~1937年)は、テネシー州出身のブルース&ジャズシンガー。

情感溢れる歌声は建造物さえも揺るがすほどの声量と言われ、その人気と実力から「ブルースの女帝」と呼ばれた。

1920年~30年代最も重要なシンガーの一人であり、メイミー・スミスと共に国民的成功を収めた最初のブルースアーティストである。

ブルース史上珠玉の宝石である彼女の音楽活動は、テネシー州の一本のストリートから始まった。

牧師をしていた父は彼女が幼い頃に他界し、ベッシーはその顔すら覚えていない。
そして彼女が9歳の頃、たった一人で家族を支えていた母までが他界した。

取り残された幼いベッシーとその兄は、路上演奏をしてその日のパン代を稼いでいたと言う。

ベッシーが10歳の頃、ギタリストだった兄は地元の小さなトラベリング・バンドに雇われ、興行の旅に出る。

そして8年後、プロのミュージシャンとして成長した兄は、マネージャーを伴って地元のチャタヌーガに帰郷する。

こうしてベッシーは兄に迎えられ、プロとしてのキャリアをスタートするのだ。

ベッシー18歳の頃である。

そして1913年、ジョージア州アトランタにある小さな劇場でデビューしたベッシーは、スターへの階段を全速力で駆け上がっていく。

2009年10月27日火曜日

1909年 「ブルースの父」WC・ハンディと『メンフィス・ブルース』



1909年 「ブルースの父」WCハンディ(1873-1958 アラバマ州出身)は、アラバマ州フローレンスの敬虔なクリスチャンの家に生まれた。

生まれた頃から教会音楽に親しんで育った彼だが、幼少の頃の彼の心を捉えたものは、アラバマ州の田舎町に生息する蝙蝠のはばたく音、ふくろうの鳴き声、サイプレス・クリークという渓谷で汗ばんだ手や顔を洗った時の音だという。

「オルガン教室や教会の音楽よりも、南部の黒人労働者がシャベルで大地をたたき、そのリズムで歌うのを聞いているのが好きだった。彼らのリズムはクラシック音楽よりも複雑で、彼らの唄は人生の全てを歌っていた。」

後年、ハンディ自らが語った言葉だ。
南部の黒人達が歌うフィールド・ハラー(労働歌)が、後に「ブルースの父」と呼ばれるハンディの下地を作ったのであろう。

音楽家としてそれなりの教養と経験をつんだハンディは、1903年、ミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でブルースと出会う。

ブルースという音楽は、決してハンディが生み出したわけではない。
それまで、音楽的教養のない、南部の貧しい黒人達が演奏していたブルースを、音楽的教養があり、比較的経済的に恵まれた黒人、WCハンディが世に送り出したのだ。

こうして来たる1909年、ハンディはオリジナルのブルース『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表する。
そして1912年、この『メンフィス・ブルース』は世界初のブルースの楽譜として出版されるのだ。

この『メンフィス・ブルース』が作品として生み出されるために、ハンディが研究した南部の黒人音楽“ブルース”を、彼はこう語っている。

「南部の黒人達の歌は、3度と7度の音(ミとシ)が微妙に下り、メジャーとマイナーの中間のようなキーを作り出している(現在のブルーノート・スケール。)また、彼らの歌にはトニック、サブ・ドミナント、ドミナント・セブンのコード進行が見られた(現在の3コード進行。)そして彼らは、同じフレーズを2度繰り返して歌い、3度目にその結末のような歌詞を持ってくる(これを整理すると、12小節になる。)」

ブルーノート・スケール、3コード、12小節。
これ以降、全てのブルースの原型となる「12バー(小節)・ブルース」が、こうして完成した。

♪ ♪ ♪

今回の動画は、WCハンディ作曲の『メンフィス・ブルース』を、デューク・エリントンの演奏でお送りします。

デューク・エリントンは、言わずと知れた『ハーレム・ルネッサンス』の雄、スウィング・ジャズの巨匠です。

よく、ブルースとジャズの違いについて質問されるのですが、この曲を例にとって説明してみましょう。

簡単に言うと、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』は、曲がブルース、アレンジや演奏形態がジャズということになります。

『メンフィス・ブルース』の楽譜が出版された1912年、ジャズにはまだ正式名称がありませんでした。

Jasshouse Music(ジャスハウス・ミュージック/売春小屋音楽)などと呼ばれていましたが、Jass(ジャス/性交や女性器を意味する南部の古い俗語)という差別的呼称を避けるために、Jazz(ジャズ)という正式名称が1920年代に米国シカゴでつけられました。

したがって、1920年代以前には、”ジャズ”という音楽の正式なジャンルはなかったわけですね。
ジャズは、ブルースや黒人霊歌などを演奏するための、演奏スタイルの一つだったんです。

どうりで、ジャズの曲名には『~~ブルース』というのが多いのも頷けます。

しかし、1920年代以前のニューオリンズやディキシーランドの即興演奏には、ブルースの枠ではくくりきれないものが多くありました。
また、ジャズが確立されてからの発展には、他のどのジャンルの音楽も追随できないものがあります。

こうしてジャズは、音楽のジャンルとしての地位を高め、独立していったわけです。

さて、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』ですが、多少変則的な小節割りやII-V-Iといったジャズお決まりのコード進行などがありますが、中盤では明確な12小節、3コードのブルースが聴けます。

では、”世界最初のブルース”を、お楽しみください。

2009年10月22日木曜日

1903年 ブルース生誕

W.C. Handy

1903年は、全てのブルースファンにとって記念すべき年である。

先述したように、厳密な意味でのブルースの始まりはそれ以前に遡るが、1903年が『ブルース生誕の年』とされるのには、次のような秘話が隠されている。

「1903年、私がミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でうとうとしていると、一人の黒人がギターを爪弾き始めた。彼は、ナイフを弦に押し付けてハワイアン・ギターのようにスライドさせ(ボトル・ネック奏法のような物と思われる)、同じフレーズを三度繰り返して歌い、ギターをそれに呼応させた。それは、私が今までに聴いたどんな音楽とも違っていた。」

「ブルースの父」と呼ばれる、WC・ハンディのエピソードだ。

ハンディはこの時の経験が忘れられず、未知なる音楽『ブルース』を求めてデルタ地帯を駆けずり回る。
そして、そこで得た経験とインスピレーションをもとに、1909年に『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表する。

そして来たる1912年、これが世界で初めてのブルースの楽譜として出版されるのだ。

しかし、楽譜としてのブルースが出版された1912年ではなく、ハンディがブルースと“出会った”この1903年が、ブルース生誕の年とされている。

それはまるで、恋愛が成就した結婚記念日よりも、二人が出会った日を祝福する恋人同士に似ている。

ブルースとハンディ、まさにアメリカ音楽史上における“運命の出会い”であった。

2009年10月19日月曜日

1902年 「ラグタイム王」スコット・ジョプリン

Scott Joplin

スコット・ジョプリン(1868~1917テキサス州出身)は、元奴隷の父親と庶子である母親の間に生まれた。

極貧の家庭で育ったスコットに、掃除婦などをしていた母親が「少しでも芸が身の助けになれば」とピアノを買い与えたことから、彼の音楽人生は始まる。

当時、黒人への教育は学校も制度も整っておらず、スコットは親戚や両親の知人や持つわずかな知識をもとに、独学でピアノの奏法と即興演奏を会得した。

やがて、ドイツ系移民のジュリアス・ウェイツが彼の才能に気づき、無償でヨーロッパ民謡やオペラなどのレッスンを与え、スコットの類まれなる才能が開花する。

1899年、スコットは『メイプル・リーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)』を発表し、これがラグ・タイムとして初めてのヒット曲となった。

1900年代に入るといくつものヒット曲が連発され、来たる1902年、彼の代表曲である『エンターテイナー(The Entertainer)』が大ヒットし、スコットは「ラグ・タイム王」の称号を得る。

ちなみに、録音技術の完成されていない当時、ヒット曲とは楽譜の売れ行きを意味している。

こうしてアメリカ国民は、ルーツであるブルースよりも先にラグ・タイムを通して黒人音楽を知った。
それは、アメリカの大地を覆った“人種差別”という厚く重たい氷をほんの少し溶かし、黒人音楽を萌芽させる第一歩となったのだ。

そして1900年代、黒人音楽は長く厳しい冬を乗り越え、音楽史上に大輪の花を咲かせることになる。

♪ ♪ ♪



今回ご紹介するのは、スコット・ジョプリンの代表作であり、最大のヒット曲である『エンターテイナー』です。

この曲が、「ラグタイム」だとは知らずに聞いていた人も多いでしょう。

ロバート・レッドフォードやポール・ニューマンが出演した、1973年の映画『スティング』のエンディングテーマになり、オリジナルの発表から70年の時を経て、全米にラグタイム・リバイバルを巻き起こしました。

ピアノのみで演奏されるジョプリンのオリジナルより、もしかしたらこのサウンドトラックのほうが現在では有名かもしれません。

この曲が気に入ったら、ぜひ学校の吹奏楽部やサークルなどで演奏してみてください。

♪ ♪ ♪

そして今回は、同じ曲をピアノのみのバージョンでもお送りしましょう。

もともとスコット・ジョプリンはピアニストですので、こちらのほうがオリジナルに近い雰囲気が感じられると思います。

演奏はディック・ハイマンで、1975年の録音です。

ディック・ハイマンは1927年生まれ、ニューヨーク出身のジャズ・ピアニスト。

今年(2009年)82歳になった彼は、プロとして50年を超えるキャリアを持ち、100枚を超えるアルバムをリリースしたベテラン中のベテラン。

プラスチック製のLPレコードから流れる彼の音は、一つ一つの音をどれだけ大切に弾いているかが伝わってくるかのように、やさしく、暖かいです。

さあ、フルのバンド・バージョンとソロのピアノ・バージョン。
あなたは、どちらが好きですか?

2009年10月17日土曜日

1900年前後 ブルースからラグタイムへ


悠久の流れが、そのままアメリカ音楽の歴史となった河、ミシシッピ・リバー。
時の流れが人の流れを作り、河の流れは音楽の流れとなった。

米国深南部からシカゴへと向かう道のりの途中、ミシシッピ河中流に広がるミズーリ地方で、ブルースはクラシック音楽と出会い、ラグタイムとなった。

ラグタイムは、19世紀末ミズーリ地方に住む黒人達が生み出したピアノ演奏様式。
シンコペーションのリズムとブルースを基本としたメロディが特徴で、ニューオリンズとは違う方向からジャズへと発展した源流のひとつである。

リズムと和音を構成する左手の規則的な演奏に、旋律を主とした右手の演奏が強い裏のリズムにのることから、タイム(time)が遅れた(ragged)感じに聞こえることで、ラグド・タイム(ragged-time)略してラグタイム( ragtime)と呼ばれた。

ラグタイムが生まれた時点では、まだブルースの楽譜は(もちろんレコーディングも)存在していない。
まだ記憶と感性の中にのみ存在していたブルースが、クラシックの教養を身につけた黒人演奏家によって導き出されたのが、ラグタイムだ。

同じくブルースから派生し、同じくジャズの源流となった、感性と即興が主軸を成すニューオリンズ・ジャズに対し、ラグタイムに即興は無く、教養に裏づけされた理論と構成が見られる。

ラグタイムの創始者達が子供の頃、黒人には教育の機会が与えられていなかった。
彼らのほとんどが独学で音楽の知識や、ピアノの技術を身につけている。

自らを教育し、自らを鍛錬し、黒人達がどん底から這い上がるために踏み出した第一歩、それが、このラグタイムだったのかもしれない。


♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、「ラグタイム王」スコット・ジョプリンが、1899年に発表した『メイプル・リーフ・ラグ』です。
この曲により、ラグ・タイムという音楽のジャンルが世に認知されました。

演奏している陽気なおじさんは、ロッド・ミラーさん。
この人は別に、「歴史的な人」とか、「偉大なミュージシャン」ではありません。
カリフォルニアの「ディズニーランド」で、ピアノを弾いている人です。

ただ、驚異の速弾きと、それでいてとても軽いタッチの音使いがとても印象に残ったので、この人の動画を選びました。

確かに、ラグタイムの軽快なサウンドと、ディズニーランドの雰囲気はよく合います。

19世紀末、元奴隷やその子供達が生み出した音楽が、今では夢の国で演奏されていることを思うと、「世界は、悪いほうにばかり向かってるわけじゃないなあ」と、ちょっとだけ思います。

このロッドおじさんには、今でも、カリフォルニアのディズニーランドに行けば会えます

2009年10月14日水曜日

1800年代末期 伝説の「ジャズの創始者」バディ・ボールデン

the Bolden Band

奴隷解放令から間もない1800年代末期、”コルネットを使った即興演奏”という意味で、「ジャズの創始者」とされる男がいた。
アメリカ音楽史上の伝説、バディ・ボールデンである。

バディ・ボールデン、本名チャールズ・ボールデン。
1877年9月6日生まれ(通説)、1931年11月4日死去。



上記のプロフィールはあくまで通説で、ボールデンの生年月日も職業も、正確な記録は見つかっていない。
さらに、楽譜も録音された演奏も残っておらず、知人や後続のミュージシャンの口伝と数枚の写真だけが彼を知る手がかりだ。

同じくニュー・オリンズ出身で、「ジャズの神様」と称されるルイ・アームストロングが、「子供の頃、ボールデンのやたらと馬鹿でかい音の演奏を聴いたことがある」と語っている。

ボールデンの音は「数ブロック先からでもわかる」といわれるほどに大きく、個性的で、即興でコルネットを吹きながら、パレードに飛び込んで行ったり、きれいな女性を追い回したりしていたらしい。

ボールデンはキング・ボールデンとも呼ばれ、ジャズ史上初めて王様と呼ばれた男でもある。
しかし、その華々しい称号とは裏腹に、彼もほかの黒人達と同様、差別と貧困の外に出ることはなかった。
生活苦から精神病に陥ったという説もあり、彼の死亡場所もルイジアナ州の精神病院となっている。

現在このジャズの創始者は、貧困層と無縁仏が多く埋葬されるホルト・セメタリーという墓地の、名もない墓標の下で静かに眠っているという。

♪ ♪ ♪

バディ・ボールデンは録音も映像も残されていないので、今回は「これぞニューオリンズ」という一曲をご紹介します。
とは言っても、もう皆さんご存知の曲でしょう。

『When the Saints Go Marching In (聖者の行進)』

ニューオリンズのテーマソングとも言うべき曲で、ニューオリンズを歩いていると一日一回は必ずこの曲を耳にします。

演奏はやはり、ミスター・ニューオリンズこと「ジャズの神様」ルイ・アームストロング。
彼はミューオリンズ国際空港、通称『ルイ・アームストロング空港』の名前になったり、ルイ・アームストロング公園に銅像が建っていたりと、高知県の坂本竜馬と同等か、それ以上に、市民に愛されています。

日本では、小学校の鼓笛隊や、マーチング・バンドでよく演奏されるこの曲。
実は、葬送行進曲なんです。

現在でもニューオリンズのお葬式では、棺桶を墓地まで運んだり、参列者が棺桶の中に花を添える時に、BGMとしてこの曲が演奏されます。

「え?こんな明るい曲が??」

と思うかもしれません。
でも、この曲のメロディのルーツをたどると、黒人霊歌に行き当たります。

奴隷制時代、黒人奴隷が死んでも、お葬式なんてできませんでした。
だからせめて、自分達の愛する黒人霊歌を歌い、仲間の冥福を祈ったのでしょう。

以前のブログでご紹介した『アメージング・グレイス』は、黒人白人を問わず、お葬式には欠かせない歌です。
でもニューオリンズの人々は、悲しみを悲しい音楽で演出はしないんですね。

「聖者が町にやってきて、一番いいやつをつれて行っちまった。あいつは今頃、天国で幸せに暮らしてるのさ。自分が奴隷だったことも忘れてね。」

なんて声が、聞こえてきそうです。

では、本場ニューオリンズの楽しさには遠く及びませんが、雰囲気のかけらだけでもお楽しみください。

ルイ・アームストロング
『when the Saints Go Marching In (聖者の行進)』

黒人、白人、ブラウン(黒人と白人のミックス)、アジア人が一緒のバンドです。

2009年10月13日火曜日

1800年代後期 ブルースからジャズへ



シカゴとは逆方向に、ミシシッピ河を南へ下る黒人達がいた。

世界第四の大河、米国を南北に貫くミシシッピ河。
その河口の町では、港湾労働や軍事産業など、良い働き口があると黒人達の間で噂されていたのだ。

彼らが目指したのは、スペインやフランス統治時代の面影と、西欧と米国南部の文化が融合された「ケイジャン/クレオール文化」を残す美しい町、ルイジアナ州ニューオリンズ。

奴隷解放後も、ニューオリンズでは強烈な人種差別が存続していた。
黒人の音楽活動も厳しく制限され、週にたった一度の日曜日、町でたった一箇所コンゴ・スクエア(現在のルイ・アームストロング公園の一角)という場所でのみ、音楽活動が許されていた。

(現在のコンゴ・スクエアへは、まず行かないほうが無難。ただでさえ治安の悪い地域にあるうえに、2005年のハリケーン"カトリーナ”による大洪水の影響がいまだに残り、治安の悪さに拍車がかかっている。)

音楽的教養のない黒人達がかもし出す音は、まさに魂の叫びだった。
極度の貧困にあえぐ黒人達が持ち寄る楽器は、彼らが命以外に持ちえた唯一の財産だった。
そして彼らは、仲間たちと出会い、即興演奏の中で音を共有する喜びを知った。

「ジャム・セッション」の始まりだ。

ブルースの旋律、西欧の楽器、そして奴隷制250年の間、黒人の遺伝子の中で眠っていたアフリカのリズム。

この3つが出会い、ジャズが生まれた。

♪ ♪ ♪


今回アップした動画は、現在のコンゴ・スクエアの様子です。
2005年の大洪水の直後と比べると、かなり復興が進んでいます。

「ジャズ生誕の地」コンゴ・スクエアでは、毎年秋に『コンゴ・スクエア・リズム・フェスティバル』が開かれます。

同じニューオリンズのお祭りでも、全米最大級のお祭り『マルディグラ』や、音楽の祭典『ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』と違い、『コンゴ・スクエア・フェスト』は規模も小さく、黒人の歴史的伝統を前面に押し出したお祭りです。

2007年スタートとまだ歴史の浅いお祭りですが、そのぶん商業化されていない「黒人臭さ」、または「アフリカ臭さ」が感じられます。
動画で演奏されているのも、アフリカの太鼓(ジャンベが中心)を使ったアフリカのリズム。
このリズムとブルースが出会い、ジャズが生まれたんですね。

いっけん、ただの16ビートに聞こえるこのリズム。
しかしこの中には、シンコペーションや、スイングのリズムが隠れた形で満載されてます。
それらを聞き取ることができれば、ジャズ・リズム感アリかもしれません。

ニュー・オリンズは、言わずと知れたジャズの都。
古き良きニューオリンズ・ジャズやディキシーランド・ジャズが、今でも街中に溢れています。

しかも、ジャンボ生ガキやケイジャン・フードなど、ニューオリンズは全米で一番「おいしい」町。

2005年の大洪水のせいで街中が破壊され、一時は観光客どころか、住民すらもこの町を見捨てました。
しかし、ニューオリンズの町や音楽を愛する人々が再びこの町に集まりだし、徐々に復興が進んでいます。

多くの産業が破壊されてしまった現在、観光収入が一番ニュー・オリンズの助けになると、関係者は語ります。

しかし、以前に比べると、はるかに治安が悪化してしまったのは事実です。

というわけで、、どうしてもニューオリンズに行きたいという人には、次のような方法があります。

マルディグラやジャズ・フェスティバルなど、お祭りシーズンに行く。
街中人で溢れてますし、警察も大量に出てます。

観光と文化の中心地フレンチ・クオーターに的を絞る。
フレンチ・クオーター内の治安は、以前と同じくらい良くなってます。

ニューオリンズに詳しい人と一緒に行く。
やはり、「知らない」というのが一番危険ですからね。
でも、「知ってるつもり」は禁物。
1度や2度行ったことあるくらいが、一番危ないかも。

では、「ジャズの聖地」「ジャズ誕生の町」「アメリカ音楽のふるさと」「アメリカで一番楽しい町」「アメリカで一番おいしい町」などといわれるニューオリンズの町と音楽を、どうぞ満喫してきてください。

2009年10月12日月曜日

1865年~ 河の流れ 人の流れ ブルースの流れ


1865年に南北戦争が終結すると、奴隷制は憲法により禁止され、黒人奴隷たちは解放された。
250年にわたる米国最大の負の歴史が終わりを告げ、新しい時代が夜明けを迎えたのだ。

解放された黒人達は、奴隷制の中心地であった深南部を抜け出し、比較的自由で差別の少ない北部の街々へと移り住んだ。
特に、ミシシッピ河で深南部と直接つながる中西部の大都市、イリノイ州シカゴの街へは、より良い職と暮らしを求めて大量の黒人が移り住んだ。

ブルースもそんな流れと共にシカゴへと運ばれ、かの地で洗練され、成長し、やがてラジオの電波に乗って全米、そして世界へと配信されていった。
それが、シカゴが「ブルースの世界首都」と呼ばれるゆえんだ。

こうしてブルースは、人の流れと共に徐々に全米へと広がっていった。
マーク・トウェインの名作『トム・ソーヤーの冒険』で、トムとハックが筏に乗ってミシシッピ河を旅した時代の、ほんの少しあとの話である。

ミシシッピ河を遡る蒸気船の上、大陸を横断するキャラバンの中、自由を勝ち得た人々の口には、喜びのブルースが口ずさまれていたことだろう。
ブルースの歴史とは、アフリカ系アメリカ人(黒人)の自由の歴史なのだ。

これが、ブルースに「自由」という言葉が欠かせない理由である。

♪ ♪ ♪

マーク・トゥエインの著書『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』は、恐らく世界で一番人気のあるアメリカ文学ではないでしょうか。

著者のマーク・トゥエインは、ミズーリ州ハンニバルというミシシッピ川中流の小さな町出身。
トム・ソーヤーも、ハックルベリー・フィンも、この町を舞台に描かれており、町のいたるところにトムやハックにまつわる逸話があります。

さて、ここでは『ハックルベリー・フィンの冒険』をご紹介します。

『ハックルベリー・フィンの冒険』は1884年の出版で、奴隷解放令のちょっと後ですが、物語の年代設定は奴隷解放令の前、南北戦争のさなかになっています。

主人公のハックはプア・ホワイト(貧乏な白人)の出身で、町でも有名な腕白坊主です。
父親はひどいアル中で、ハックに暴力を振るいます。

そんなある日、ハックは「自分は死んだ」と父親に思わせ、家も町も捨てて逃げ出します。

同じ頃、親友トムの家の奴隷のジムが、自由を求めて逃亡を企ていました。
ハックは、逃亡奴隷として追われの身になったジムを助けながら、筏に乗って一緒にミシシッピ河を旅するのです。

旅の途中、二人は戦争に巻きこまれたり、ジムが「ハック殺害容疑」で捕まったりと、様々な困難に襲われます。
しかし、困難はハックとジムの間に、深い友情を芽生えさせるのでした。
白人少年と、黒人奴隷の友情。
しかし、時代はまだ二人の友情を許しません…

『ハックルベリーの冒険』は、単に物語としての面白さだけでなく、当時の社会背景や人々の思考法を知るうえでも、とても優れた作品です。

でも、活字はちょっと苦手…という方には、映画もおススメ。

主役は、ロード・オブ・ザ・リングス(指輪物語)フロド役のエリジャー・ウッド。
幼き日の彼は、すでに大物俳優の片鱗を見せています。

ディズニー映画なので、映像がとてもきれいです。
ミシシッピ河の広大な風景、奴隷達が働いていた南部のプランテーション、南北戦争、貧富の差など、歴史的要素が効果的に描き出されています。

下に予告編だけアップしておきますので、興味のある方は見てみてくださいね。
当時の黒人奴隷達の気持ちが、ちょっとだけわかるかもしれません。



2009年10月11日日曜日

1865年以前 黒人霊歌



黒人霊歌は、英語でNegro Spiritual(二グロ・スピリチュアル。)
ただ、二グロと言う言葉は黒人に対する強烈な差別用語でもあるので、Black Spiritual とか、Spiritual Musicと言うといいだろう。

黒人霊歌とフィールド・ハラーは、互いに影響しあい、共に発展してきた、黒人奴隷達の古い音楽。
しかし、どちらがブルースのルーツかと言えば、フィールド・ハラーのほうが格段に影響が大きい。

フィールド・ハラーには、そのままブルースとして通用するものも多いが、黒人霊歌をそのまま3コード、12小節のブルースにはしにくい。
歌詞の内容を見ても、黒人霊歌は宗教音楽、ブルースは基本的に宗教とは関係のない音楽だ。

フィールド・ハラーと黒人霊歌の違いは、過去のブログ『1800年代~ ブルースの起源』でアップした動画と、今回の動画を聞き比べてもらえばはっきりとわかるだろう。

アフリカからアメリカに移住させられた黒人奴隷達の中には、独自の宗教や信仰を持っていたものも多い。
しかし奴隷商人達は、彼らをコントロールするために、無理矢理キリスト教に改宗させたりした。

信仰を奪われるということは、自由や財産を奪われるよりもつらいことだと言う。
しかし、鎖に繋がれ、鞭で打たれ、水も食べ物も奴隷商人の手を通してしか得ることのできなかった黒人奴隷達に、反抗するすべは無かったのだ。

しかし、キリスト教はもともと慈悲と救いの宗教。
黒人奴隷の中には、キリスト教に救いを見出し、自ら受け入れ、学ぼうとするものが現れた。
また、キリスト教を、教育や道徳を得る唯一の材料とするものもいた。

こうしてキリスト教は、黒人奴隷達の間で広まっていったのだ。

救いを得るために、つらい農作業中も聖書の言葉を繰り返した。
やがて、それに節がつき、歌になった。
また、学のあるものが聖書の一遍を読み上げ、周りにいるものがそれに続いた。
やがて、それがコール&レスポンスになった。

こうして、黒人霊歌は生まれたのである。

黒人霊歌の美しさは、彼らの悲しみのせいかもしれない。
コール&レスポンスの力強さは、彼らの苦しみのあらわれかもしれない。

当時の黒人奴隷達の「祈り」が、音楽となり、現代の我々の胸に響いている。


♪ ♪ ♪

さて、 今回アップした動画は、『スティール・アウェイ・トゥ・ジーザス』という、黒人霊歌の名曲です。

作曲者はウォーラス・ウィリス。
作曲年ははっきりしておらず、少なくとも1862年より前だということで、奴隷解放令以前から歌われていたようです。

歌っているのはバーニス・ジョンソン・レーガン。
彼女は、フリーダム・シンガーズというグループのメンバーで、1960年代の公民権運動に参加し、黒人の権利向上と、非暴力を訴え続けました。

♪ ♪ ♪

さてさて、今回は2曲アップすることにしました。

次に紹介する曲は、厳密な意味では黒人霊歌ではないのですが、奴隷制時代も現代も、この曲は歌われ続けています。
アメリカ国民にとっては特別な意味を持つ歌で、「この曲が一番大切な歌」と言うアメリカ人も、少なくありません。

ジョン・ニュートン作詞。
作曲者は不明で、「アイルランド民謡やスコットランド民謡が起源になっている」「米国南部で作られた」など、諸説様々です。

作詞のジョン・ニュートンは、イギリスの奴隷商人でした。

奴隷貿易の実態は、それはそれはひどいもので、奴隷たちは家畜以下の扱いを受けていました。
アメリカ大陸につく前に、飢餓、脱水、伝染病、感染症などで死ぬものも多くいました。

そんなある日、ニュートンの乗った奴隷船が嵐にあい、難破してしまいます。
ニュートンはクリスチャンでありながら、この時初めて、真剣に神に祈りました。

そしてニュートンは、九死に一生を得るのです。

その後も、彼は奴隷貿易を続けるのですが、彼の奴隷に対する扱いは明らかに変わりました。

奴隷達に着る物を与え、水や食べ物を与えました。
奴隷達が収容された船底を掃除し、病人やけが人には治療を施しました。

ニュートンは、「命の尊さ」を知ったのです。

そして6年後、ニュートンは奴隷貿易自体から手を引きます。

しかし、彼の胸の中は、後悔の念でいっぱいでした。
奴隷貿易をしたこと、彼らにひどい仕打ちをしたこと、そして、多くの死者を出したこと…

ニュートンは考え続けました。

あの嵐の夜、神はなぜ、私を助けたのだろう?
こんなひどいことをした私を、神はなぜ生かし続けたのだろう?

ニュートンはそんな想いをこめて、この詩を書きました。

『アメージング・グレイス』

1947年の録音。
歌は、「ゴスペルの女王」マヘリア・ジャクソンです。

2009年10月10日土曜日

1865年 奴隷制の終わり 人種差別の始まり


1863年1月1日に『奴隷解放宣言』が出され、南北戦争が北軍の勝利に終わると、1865年に奴隷制は憲法により禁止された。
ここに250年に及ぶ米国最大の負の歴史は終わリを告げ、新しい時代が夜明けを迎える。

しかし、開放されたアフリカ系アメリカ人(黒人)たちを待ち受けていたものは、『人種差別』や『貧困』という、更なる悲劇だった。

2009年、バラク・オバマ氏が米国大統領に就任し、史上初の黒人大統領が誕生した。
これにより、「史上初の快挙」「米国は人種差別を克服した」などと、各種メディアが取り上げた。 しかし…

人類は、本当に人種差別を克服したのだろうか?
本当の自由や人権を、手に入れたのだろうか?

♪ ♪ ♪

奴隷制や人種差別問題を、「海の向こうの出来事」と考える日本人は多い。
しかし、日本国内にも奴隷制や人種差別は存在したのだ。

日本の植民地政策時代(1906-1945)や、第二次世界大戦中に、中国、朝鮮半島、その他の地域から人々を強制的に日本に連れ去り、過酷な労働に従事させた『強制労働問題』は、日本国内における奴隷制度であったと言い換えてもいいだろう。

また『従軍慰安婦』は、日本の和英辞典では『Comfort Woman(慰安婦)』と翻訳されているが、米英のメディアでは『Sex Slave(性の奴隷)』と表記されることがよくある。

『在日中国・朝鮮人』への差別は、日本国内に存在する明確な人種差別だ。

また、『えた・ひにん』は、同じ日本人に理不尽な身分を与え、強制的に被差別階級を作った、人種差別よりもさらに悪質な制度である。

中国、北朝鮮、韓国をはじめとした国々は、『強制労働問題』や『従軍慰安婦問題』への謝罪と賠償を、戦後60年以上が過ぎた現在でも求めている。

また、以前より減少はしたものの、『在日』や『えた・ひにん』に対する差別は、現在も無くならない。

歴史上の出来事は全て、「すでに終わったこと」ではなく、「未来への教訓」である。

だから、信じたい。

「過去の暗闇」は、これから作り出す「未来の光」のためにあったのだと。

2009年10月9日金曜日

1800年代~ ブルースの起源



19世紀初頭から中ごろにかけて、米国深南部(ミシシッピ、テネシー、アラバマ、ルイジアナ、ジョージアなどを含む地域)のプランテーションで働く黒人奴隷たちの間で歌われていたフィールド・ハラー(労働歌)が、ブルースの起源だ。

もちろんそれ以前にも(当然アフリカ時代から)黒人達の間に歌はあったのだが、シンコペーションのリズム、ブルーノート・スケール、4拍子で区切られる整った小節感覚などがそろい始めたのがこの頃であるといわれている。

また、黒人奴隷の間にキリスト教が普及し、一人が聖書の一遍を読み、皆がそれに呼応する「コール&レスポンス」も同じ頃に生まれた。
ゴスペルの基礎となる、黒人霊歌(スピリチュアル)の始まりである。
現代のゴスペルも、ソロシンガーが歌い聖歌隊がそれに答えるという「コール&レスポンス」のスタイルを受け継いでいる。

ブルースと黒人霊歌は、ほぼ同じ頃、同じ黒人奴隷たちの間で生まれ、互いに影響しあいながら発展してきた。
しかし、黒人霊歌はあくまで宗教音楽。
ブルースは、宗教とは基本的に関係のない労働歌(「母ちゃんのためならエンヤコーラ」のようなもの)である。

ブルースや黒人霊歌が生まれた頃、もちろんレコードなどの録音技術は存在しない。
しかも、楽譜どころか文字さえ書けない人たちが生み出した音楽であるから、『世界最初のブルース』は、曲も、歌詞も、記録すらも残されていない。

アフリカの記憶、アメリカの大地、そして歴史の爪跡。
世界最初のブルースを聞きたければ、それらを思い描きながら、想像の中でジューク・ジョイントするしかない。

♪ ♪ ♪

さて、アップした動画はNegro Prison Song(黒人収容所で歌われていた歌)の『Rosie』という歌です。
奴隷制時代からはるか時が過ぎた1947年の録音ですが、フィールド・ハラーの雰囲気が良く出ているのでこれを選びました。

ソロ・シンガーが歌い、周りがそれに呼応する『コール&レスポンス』が印象的で、後ろでリズムを刻んでいる音は、斧で木を切る音です。

ロージーという名の女の人に捧げる愛の歌で、

『 結婚しよう。
 君の手には幸せが握られてるんだよ。
 結婚しよう。
 約束じゃないか、いつか自由になったらって。』

という意味の歌詞が歌われています。

2009年10月8日木曜日

1619年~ 米国奴隷制時代


1619年、米国バージニア州の港に20人の黒人が降り立った。
米国史上初の“奴隷”として、アフリカから強制移住させられた者たちだ。

『奴隷制度』という、約250年にわたるアメリカ合衆国最大の負の歴史が、ここから始まる。

黒人奴隷を労働力として、タバコや綿花を主産物としたプランテーション経済は米国に巨万の富をもたらし、1700年代には黒人奴隷の数は50万人を超えていたと推測される。

単なる農場労働力や召使いとして存在した奴隷たちは、自由を持たず、人権を持たず、スレイブ・オーナー(奴隷所有者)の私有物として牛馬同様の扱いを受けていた。

1776年の独立宣言後も、奴隷制は継続された。

1808年の『奴隷貿易禁止令』の後は、米国国内に奴隷飼育とでも呼ぶべき産業が生まれ、奴隷は金銭により売買され、奴隷の子供たちは家族から切り離された。

しかし1800年代に入ると、そんな奴隷制に異を唱え、私的に奴隷を開放したり、待遇を向上させる傾向が主に北部の都市で現れる。

1820年の『ミズーリ妥協』で、米国北部での奴隷制が禁止されると、奴隷制廃止を訴える北部と、奴隷制堅持を支持する南部との間で対立が深まる。

そして、共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に就任すると、南部11州は合衆国を脱退し、『南北戦争』(Civil War 1861-1865)が勃発した。