2009年10月29日木曜日

1913年 ベッシー・スミス始動

Bessie Smith

ベッシー・スミス(1894年~1937年)は、テネシー州出身のブルース&ジャズシンガー。

情感溢れる歌声は建造物さえも揺るがすほどの声量と言われ、その人気と実力から「ブルースの女帝」と呼ばれた。

1920年~30年代最も重要なシンガーの一人であり、メイミー・スミスと共に国民的成功を収めた最初のブルースアーティストである。

ブルース史上珠玉の宝石である彼女の音楽活動は、テネシー州の一本のストリートから始まった。

牧師をしていた父は彼女が幼い頃に他界し、ベッシーはその顔すら覚えていない。
そして彼女が9歳の頃、たった一人で家族を支えていた母までが他界した。

取り残された幼いベッシーとその兄は、路上演奏をしてその日のパン代を稼いでいたと言う。

ベッシーが10歳の頃、ギタリストだった兄は地元の小さなトラベリング・バンドに雇われ、興行の旅に出る。

そして8年後、プロのミュージシャンとして成長した兄は、マネージャーを伴って地元のチャタヌーガに帰郷する。

こうしてベッシーは兄に迎えられ、プロとしてのキャリアをスタートするのだ。

ベッシー18歳の頃である。

そして1913年、ジョージア州アトランタにある小さな劇場でデビューしたベッシーは、スターへの階段を全速力で駆け上がっていく。

2009年10月27日火曜日

1909年 「ブルースの父」WC・ハンディと『メンフィス・ブルース』



1909年 「ブルースの父」WCハンディ(1873-1958 アラバマ州出身)は、アラバマ州フローレンスの敬虔なクリスチャンの家に生まれた。

生まれた頃から教会音楽に親しんで育った彼だが、幼少の頃の彼の心を捉えたものは、アラバマ州の田舎町に生息する蝙蝠のはばたく音、ふくろうの鳴き声、サイプレス・クリークという渓谷で汗ばんだ手や顔を洗った時の音だという。

「オルガン教室や教会の音楽よりも、南部の黒人労働者がシャベルで大地をたたき、そのリズムで歌うのを聞いているのが好きだった。彼らのリズムはクラシック音楽よりも複雑で、彼らの唄は人生の全てを歌っていた。」

後年、ハンディ自らが語った言葉だ。
南部の黒人達が歌うフィールド・ハラー(労働歌)が、後に「ブルースの父」と呼ばれるハンディの下地を作ったのであろう。

音楽家としてそれなりの教養と経験をつんだハンディは、1903年、ミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でブルースと出会う。

ブルースという音楽は、決してハンディが生み出したわけではない。
それまで、音楽的教養のない、南部の貧しい黒人達が演奏していたブルースを、音楽的教養があり、比較的経済的に恵まれた黒人、WCハンディが世に送り出したのだ。

こうして来たる1909年、ハンディはオリジナルのブルース『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表する。
そして1912年、この『メンフィス・ブルース』は世界初のブルースの楽譜として出版されるのだ。

この『メンフィス・ブルース』が作品として生み出されるために、ハンディが研究した南部の黒人音楽“ブルース”を、彼はこう語っている。

「南部の黒人達の歌は、3度と7度の音(ミとシ)が微妙に下り、メジャーとマイナーの中間のようなキーを作り出している(現在のブルーノート・スケール。)また、彼らの歌にはトニック、サブ・ドミナント、ドミナント・セブンのコード進行が見られた(現在の3コード進行。)そして彼らは、同じフレーズを2度繰り返して歌い、3度目にその結末のような歌詞を持ってくる(これを整理すると、12小節になる。)」

ブルーノート・スケール、3コード、12小節。
これ以降、全てのブルースの原型となる「12バー(小節)・ブルース」が、こうして完成した。

♪ ♪ ♪

今回の動画は、WCハンディ作曲の『メンフィス・ブルース』を、デューク・エリントンの演奏でお送りします。

デューク・エリントンは、言わずと知れた『ハーレム・ルネッサンス』の雄、スウィング・ジャズの巨匠です。

よく、ブルースとジャズの違いについて質問されるのですが、この曲を例にとって説明してみましょう。

簡単に言うと、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』は、曲がブルース、アレンジや演奏形態がジャズということになります。

『メンフィス・ブルース』の楽譜が出版された1912年、ジャズにはまだ正式名称がありませんでした。

Jasshouse Music(ジャスハウス・ミュージック/売春小屋音楽)などと呼ばれていましたが、Jass(ジャス/性交や女性器を意味する南部の古い俗語)という差別的呼称を避けるために、Jazz(ジャズ)という正式名称が1920年代に米国シカゴでつけられました。

したがって、1920年代以前には、”ジャズ”という音楽の正式なジャンルはなかったわけですね。
ジャズは、ブルースや黒人霊歌などを演奏するための、演奏スタイルの一つだったんです。

どうりで、ジャズの曲名には『~~ブルース』というのが多いのも頷けます。

しかし、1920年代以前のニューオリンズやディキシーランドの即興演奏には、ブルースの枠ではくくりきれないものが多くありました。
また、ジャズが確立されてからの発展には、他のどのジャンルの音楽も追随できないものがあります。

こうしてジャズは、音楽のジャンルとしての地位を高め、独立していったわけです。

さて、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』ですが、多少変則的な小節割りやII-V-Iといったジャズお決まりのコード進行などがありますが、中盤では明確な12小節、3コードのブルースが聴けます。

では、”世界最初のブルース”を、お楽しみください。

2009年10月22日木曜日

1903年 ブルース生誕

W.C. Handy

1903年は、全てのブルースファンにとって記念すべき年である。

先述したように、厳密な意味でのブルースの始まりはそれ以前に遡るが、1903年が『ブルース生誕の年』とされるのには、次のような秘話が隠されている。

「1903年、私がミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でうとうとしていると、一人の黒人がギターを爪弾き始めた。彼は、ナイフを弦に押し付けてハワイアン・ギターのようにスライドさせ(ボトル・ネック奏法のような物と思われる)、同じフレーズを三度繰り返して歌い、ギターをそれに呼応させた。それは、私が今までに聴いたどんな音楽とも違っていた。」

「ブルースの父」と呼ばれる、WC・ハンディのエピソードだ。

ハンディはこの時の経験が忘れられず、未知なる音楽『ブルース』を求めてデルタ地帯を駆けずり回る。
そして、そこで得た経験とインスピレーションをもとに、1909年に『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表する。

そして来たる1912年、これが世界で初めてのブルースの楽譜として出版されるのだ。

しかし、楽譜としてのブルースが出版された1912年ではなく、ハンディがブルースと“出会った”この1903年が、ブルース生誕の年とされている。

それはまるで、恋愛が成就した結婚記念日よりも、二人が出会った日を祝福する恋人同士に似ている。

ブルースとハンディ、まさにアメリカ音楽史上における“運命の出会い”であった。

2009年10月19日月曜日

1902年 「ラグタイム王」スコット・ジョプリン

Scott Joplin

スコット・ジョプリン(1868~1917テキサス州出身)は、元奴隷の父親と庶子である母親の間に生まれた。

極貧の家庭で育ったスコットに、掃除婦などをしていた母親が「少しでも芸が身の助けになれば」とピアノを買い与えたことから、彼の音楽人生は始まる。

当時、黒人への教育は学校も制度も整っておらず、スコットは親戚や両親の知人や持つわずかな知識をもとに、独学でピアノの奏法と即興演奏を会得した。

やがて、ドイツ系移民のジュリアス・ウェイツが彼の才能に気づき、無償でヨーロッパ民謡やオペラなどのレッスンを与え、スコットの類まれなる才能が開花する。

1899年、スコットは『メイプル・リーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)』を発表し、これがラグ・タイムとして初めてのヒット曲となった。

1900年代に入るといくつものヒット曲が連発され、来たる1902年、彼の代表曲である『エンターテイナー(The Entertainer)』が大ヒットし、スコットは「ラグ・タイム王」の称号を得る。

ちなみに、録音技術の完成されていない当時、ヒット曲とは楽譜の売れ行きを意味している。

こうしてアメリカ国民は、ルーツであるブルースよりも先にラグ・タイムを通して黒人音楽を知った。
それは、アメリカの大地を覆った“人種差別”という厚く重たい氷をほんの少し溶かし、黒人音楽を萌芽させる第一歩となったのだ。

そして1900年代、黒人音楽は長く厳しい冬を乗り越え、音楽史上に大輪の花を咲かせることになる。

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今回ご紹介するのは、スコット・ジョプリンの代表作であり、最大のヒット曲である『エンターテイナー』です。

この曲が、「ラグタイム」だとは知らずに聞いていた人も多いでしょう。

ロバート・レッドフォードやポール・ニューマンが出演した、1973年の映画『スティング』のエンディングテーマになり、オリジナルの発表から70年の時を経て、全米にラグタイム・リバイバルを巻き起こしました。

ピアノのみで演奏されるジョプリンのオリジナルより、もしかしたらこのサウンドトラックのほうが現在では有名かもしれません。

この曲が気に入ったら、ぜひ学校の吹奏楽部やサークルなどで演奏してみてください。

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そして今回は、同じ曲をピアノのみのバージョンでもお送りしましょう。

もともとスコット・ジョプリンはピアニストですので、こちらのほうがオリジナルに近い雰囲気が感じられると思います。

演奏はディック・ハイマンで、1975年の録音です。

ディック・ハイマンは1927年生まれ、ニューヨーク出身のジャズ・ピアニスト。

今年(2009年)82歳になった彼は、プロとして50年を超えるキャリアを持ち、100枚を超えるアルバムをリリースしたベテラン中のベテラン。

プラスチック製のLPレコードから流れる彼の音は、一つ一つの音をどれだけ大切に弾いているかが伝わってくるかのように、やさしく、暖かいです。

さあ、フルのバンド・バージョンとソロのピアノ・バージョン。
あなたは、どちらが好きですか?

2009年10月17日土曜日

1900年前後 ブルースからラグタイムへ


悠久の流れが、そのままアメリカ音楽の歴史となった河、ミシシッピ・リバー。
時の流れが人の流れを作り、河の流れは音楽の流れとなった。

米国深南部からシカゴへと向かう道のりの途中、ミシシッピ河中流に広がるミズーリ地方で、ブルースはクラシック音楽と出会い、ラグタイムとなった。

ラグタイムは、19世紀末ミズーリ地方に住む黒人達が生み出したピアノ演奏様式。
シンコペーションのリズムとブルースを基本としたメロディが特徴で、ニューオリンズとは違う方向からジャズへと発展した源流のひとつである。

リズムと和音を構成する左手の規則的な演奏に、旋律を主とした右手の演奏が強い裏のリズムにのることから、タイム(time)が遅れた(ragged)感じに聞こえることで、ラグド・タイム(ragged-time)略してラグタイム( ragtime)と呼ばれた。

ラグタイムが生まれた時点では、まだブルースの楽譜は(もちろんレコーディングも)存在していない。
まだ記憶と感性の中にのみ存在していたブルースが、クラシックの教養を身につけた黒人演奏家によって導き出されたのが、ラグタイムだ。

同じくブルースから派生し、同じくジャズの源流となった、感性と即興が主軸を成すニューオリンズ・ジャズに対し、ラグタイムに即興は無く、教養に裏づけされた理論と構成が見られる。

ラグタイムの創始者達が子供の頃、黒人には教育の機会が与えられていなかった。
彼らのほとんどが独学で音楽の知識や、ピアノの技術を身につけている。

自らを教育し、自らを鍛錬し、黒人達がどん底から這い上がるために踏み出した第一歩、それが、このラグタイムだったのかもしれない。


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今回アップした動画は、「ラグタイム王」スコット・ジョプリンが、1899年に発表した『メイプル・リーフ・ラグ』です。
この曲により、ラグ・タイムという音楽のジャンルが世に認知されました。

演奏している陽気なおじさんは、ロッド・ミラーさん。
この人は別に、「歴史的な人」とか、「偉大なミュージシャン」ではありません。
カリフォルニアの「ディズニーランド」で、ピアノを弾いている人です。

ただ、驚異の速弾きと、それでいてとても軽いタッチの音使いがとても印象に残ったので、この人の動画を選びました。

確かに、ラグタイムの軽快なサウンドと、ディズニーランドの雰囲気はよく合います。

19世紀末、元奴隷やその子供達が生み出した音楽が、今では夢の国で演奏されていることを思うと、「世界は、悪いほうにばかり向かってるわけじゃないなあ」と、ちょっとだけ思います。

このロッドおじさんには、今でも、カリフォルニアのディズニーランドに行けば会えます

2009年10月14日水曜日

1800年代末期 伝説の「ジャズの創始者」バディ・ボールデン

the Bolden Band

奴隷解放令から間もない1800年代末期、”コルネットを使った即興演奏”という意味で、「ジャズの創始者」とされる男がいた。
アメリカ音楽史上の伝説、バディ・ボールデンである。

バディ・ボールデン、本名チャールズ・ボールデン。
1877年9月6日生まれ(通説)、1931年11月4日死去。



上記のプロフィールはあくまで通説で、ボールデンの生年月日も職業も、正確な記録は見つかっていない。
さらに、楽譜も録音された演奏も残っておらず、知人や後続のミュージシャンの口伝と数枚の写真だけが彼を知る手がかりだ。

同じくニュー・オリンズ出身で、「ジャズの神様」と称されるルイ・アームストロングが、「子供の頃、ボールデンのやたらと馬鹿でかい音の演奏を聴いたことがある」と語っている。

ボールデンの音は「数ブロック先からでもわかる」といわれるほどに大きく、個性的で、即興でコルネットを吹きながら、パレードに飛び込んで行ったり、きれいな女性を追い回したりしていたらしい。

ボールデンはキング・ボールデンとも呼ばれ、ジャズ史上初めて王様と呼ばれた男でもある。
しかし、その華々しい称号とは裏腹に、彼もほかの黒人達と同様、差別と貧困の外に出ることはなかった。
生活苦から精神病に陥ったという説もあり、彼の死亡場所もルイジアナ州の精神病院となっている。

現在このジャズの創始者は、貧困層と無縁仏が多く埋葬されるホルト・セメタリーという墓地の、名もない墓標の下で静かに眠っているという。

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バディ・ボールデンは録音も映像も残されていないので、今回は「これぞニューオリンズ」という一曲をご紹介します。
とは言っても、もう皆さんご存知の曲でしょう。

『When the Saints Go Marching In (聖者の行進)』

ニューオリンズのテーマソングとも言うべき曲で、ニューオリンズを歩いていると一日一回は必ずこの曲を耳にします。

演奏はやはり、ミスター・ニューオリンズこと「ジャズの神様」ルイ・アームストロング。
彼はミューオリンズ国際空港、通称『ルイ・アームストロング空港』の名前になったり、ルイ・アームストロング公園に銅像が建っていたりと、高知県の坂本竜馬と同等か、それ以上に、市民に愛されています。

日本では、小学校の鼓笛隊や、マーチング・バンドでよく演奏されるこの曲。
実は、葬送行進曲なんです。

現在でもニューオリンズのお葬式では、棺桶を墓地まで運んだり、参列者が棺桶の中に花を添える時に、BGMとしてこの曲が演奏されます。

「え?こんな明るい曲が??」

と思うかもしれません。
でも、この曲のメロディのルーツをたどると、黒人霊歌に行き当たります。

奴隷制時代、黒人奴隷が死んでも、お葬式なんてできませんでした。
だからせめて、自分達の愛する黒人霊歌を歌い、仲間の冥福を祈ったのでしょう。

以前のブログでご紹介した『アメージング・グレイス』は、黒人白人を問わず、お葬式には欠かせない歌です。
でもニューオリンズの人々は、悲しみを悲しい音楽で演出はしないんですね。

「聖者が町にやってきて、一番いいやつをつれて行っちまった。あいつは今頃、天国で幸せに暮らしてるのさ。自分が奴隷だったことも忘れてね。」

なんて声が、聞こえてきそうです。

では、本場ニューオリンズの楽しさには遠く及びませんが、雰囲気のかけらだけでもお楽しみください。

ルイ・アームストロング
『when the Saints Go Marching In (聖者の行進)』

黒人、白人、ブラウン(黒人と白人のミックス)、アジア人が一緒のバンドです。

2009年10月13日火曜日

1800年代後期 ブルースからジャズへ



シカゴとは逆方向に、ミシシッピ河を南へ下る黒人達がいた。

世界第四の大河、米国を南北に貫くミシシッピ河。
その河口の町では、港湾労働や軍事産業など、良い働き口があると黒人達の間で噂されていたのだ。

彼らが目指したのは、スペインやフランス統治時代の面影と、西欧と米国南部の文化が融合された「ケイジャン/クレオール文化」を残す美しい町、ルイジアナ州ニューオリンズ。

奴隷解放後も、ニューオリンズでは強烈な人種差別が存続していた。
黒人の音楽活動も厳しく制限され、週にたった一度の日曜日、町でたった一箇所コンゴ・スクエア(現在のルイ・アームストロング公園の一角)という場所でのみ、音楽活動が許されていた。

(現在のコンゴ・スクエアへは、まず行かないほうが無難。ただでさえ治安の悪い地域にあるうえに、2005年のハリケーン"カトリーナ”による大洪水の影響がいまだに残り、治安の悪さに拍車がかかっている。)

音楽的教養のない黒人達がかもし出す音は、まさに魂の叫びだった。
極度の貧困にあえぐ黒人達が持ち寄る楽器は、彼らが命以外に持ちえた唯一の財産だった。
そして彼らは、仲間たちと出会い、即興演奏の中で音を共有する喜びを知った。

「ジャム・セッション」の始まりだ。

ブルースの旋律、西欧の楽器、そして奴隷制250年の間、黒人の遺伝子の中で眠っていたアフリカのリズム。

この3つが出会い、ジャズが生まれた。

♪ ♪ ♪


今回アップした動画は、現在のコンゴ・スクエアの様子です。
2005年の大洪水の直後と比べると、かなり復興が進んでいます。

「ジャズ生誕の地」コンゴ・スクエアでは、毎年秋に『コンゴ・スクエア・リズム・フェスティバル』が開かれます。

同じニューオリンズのお祭りでも、全米最大級のお祭り『マルディグラ』や、音楽の祭典『ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』と違い、『コンゴ・スクエア・フェスト』は規模も小さく、黒人の歴史的伝統を前面に押し出したお祭りです。

2007年スタートとまだ歴史の浅いお祭りですが、そのぶん商業化されていない「黒人臭さ」、または「アフリカ臭さ」が感じられます。
動画で演奏されているのも、アフリカの太鼓(ジャンベが中心)を使ったアフリカのリズム。
このリズムとブルースが出会い、ジャズが生まれたんですね。

いっけん、ただの16ビートに聞こえるこのリズム。
しかしこの中には、シンコペーションや、スイングのリズムが隠れた形で満載されてます。
それらを聞き取ることができれば、ジャズ・リズム感アリかもしれません。

ニュー・オリンズは、言わずと知れたジャズの都。
古き良きニューオリンズ・ジャズやディキシーランド・ジャズが、今でも街中に溢れています。

しかも、ジャンボ生ガキやケイジャン・フードなど、ニューオリンズは全米で一番「おいしい」町。

2005年の大洪水のせいで街中が破壊され、一時は観光客どころか、住民すらもこの町を見捨てました。
しかし、ニューオリンズの町や音楽を愛する人々が再びこの町に集まりだし、徐々に復興が進んでいます。

多くの産業が破壊されてしまった現在、観光収入が一番ニュー・オリンズの助けになると、関係者は語ります。

しかし、以前に比べると、はるかに治安が悪化してしまったのは事実です。

というわけで、、どうしてもニューオリンズに行きたいという人には、次のような方法があります。

マルディグラやジャズ・フェスティバルなど、お祭りシーズンに行く。
街中人で溢れてますし、警察も大量に出てます。

観光と文化の中心地フレンチ・クオーターに的を絞る。
フレンチ・クオーター内の治安は、以前と同じくらい良くなってます。

ニューオリンズに詳しい人と一緒に行く。
やはり、「知らない」というのが一番危険ですからね。
でも、「知ってるつもり」は禁物。
1度や2度行ったことあるくらいが、一番危ないかも。

では、「ジャズの聖地」「ジャズ誕生の町」「アメリカ音楽のふるさと」「アメリカで一番楽しい町」「アメリカで一番おいしい町」などといわれるニューオリンズの町と音楽を、どうぞ満喫してきてください。

2009年10月12日月曜日

1865年~ 河の流れ 人の流れ ブルースの流れ


1865年に南北戦争が終結すると、奴隷制は憲法により禁止され、黒人奴隷たちは解放された。
250年にわたる米国最大の負の歴史が終わりを告げ、新しい時代が夜明けを迎えたのだ。

解放された黒人達は、奴隷制の中心地であった深南部を抜け出し、比較的自由で差別の少ない北部の街々へと移り住んだ。
特に、ミシシッピ河で深南部と直接つながる中西部の大都市、イリノイ州シカゴの街へは、より良い職と暮らしを求めて大量の黒人が移り住んだ。

ブルースもそんな流れと共にシカゴへと運ばれ、かの地で洗練され、成長し、やがてラジオの電波に乗って全米、そして世界へと配信されていった。
それが、シカゴが「ブルースの世界首都」と呼ばれるゆえんだ。

こうしてブルースは、人の流れと共に徐々に全米へと広がっていった。
マーク・トウェインの名作『トム・ソーヤーの冒険』で、トムとハックが筏に乗ってミシシッピ河を旅した時代の、ほんの少しあとの話である。

ミシシッピ河を遡る蒸気船の上、大陸を横断するキャラバンの中、自由を勝ち得た人々の口には、喜びのブルースが口ずさまれていたことだろう。
ブルースの歴史とは、アフリカ系アメリカ人(黒人)の自由の歴史なのだ。

これが、ブルースに「自由」という言葉が欠かせない理由である。

♪ ♪ ♪

マーク・トゥエインの著書『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』は、恐らく世界で一番人気のあるアメリカ文学ではないでしょうか。

著者のマーク・トゥエインは、ミズーリ州ハンニバルというミシシッピ川中流の小さな町出身。
トム・ソーヤーも、ハックルベリー・フィンも、この町を舞台に描かれており、町のいたるところにトムやハックにまつわる逸話があります。

さて、ここでは『ハックルベリー・フィンの冒険』をご紹介します。

『ハックルベリー・フィンの冒険』は1884年の出版で、奴隷解放令のちょっと後ですが、物語の年代設定は奴隷解放令の前、南北戦争のさなかになっています。

主人公のハックはプア・ホワイト(貧乏な白人)の出身で、町でも有名な腕白坊主です。
父親はひどいアル中で、ハックに暴力を振るいます。

そんなある日、ハックは「自分は死んだ」と父親に思わせ、家も町も捨てて逃げ出します。

同じ頃、親友トムの家の奴隷のジムが、自由を求めて逃亡を企ていました。
ハックは、逃亡奴隷として追われの身になったジムを助けながら、筏に乗って一緒にミシシッピ河を旅するのです。

旅の途中、二人は戦争に巻きこまれたり、ジムが「ハック殺害容疑」で捕まったりと、様々な困難に襲われます。
しかし、困難はハックとジムの間に、深い友情を芽生えさせるのでした。
白人少年と、黒人奴隷の友情。
しかし、時代はまだ二人の友情を許しません…

『ハックルベリーの冒険』は、単に物語としての面白さだけでなく、当時の社会背景や人々の思考法を知るうえでも、とても優れた作品です。

でも、活字はちょっと苦手…という方には、映画もおススメ。

主役は、ロード・オブ・ザ・リングス(指輪物語)フロド役のエリジャー・ウッド。
幼き日の彼は、すでに大物俳優の片鱗を見せています。

ディズニー映画なので、映像がとてもきれいです。
ミシシッピ河の広大な風景、奴隷達が働いていた南部のプランテーション、南北戦争、貧富の差など、歴史的要素が効果的に描き出されています。

下に予告編だけアップしておきますので、興味のある方は見てみてくださいね。
当時の黒人奴隷達の気持ちが、ちょっとだけわかるかもしれません。



2009年10月11日日曜日

1865年以前 黒人霊歌



黒人霊歌は、英語でNegro Spiritual(二グロ・スピリチュアル。)
ただ、二グロと言う言葉は黒人に対する強烈な差別用語でもあるので、Black Spiritual とか、Spiritual Musicと言うといいだろう。

黒人霊歌とフィールド・ハラーは、互いに影響しあい、共に発展してきた、黒人奴隷達の古い音楽。
しかし、どちらがブルースのルーツかと言えば、フィールド・ハラーのほうが格段に影響が大きい。

フィールド・ハラーには、そのままブルースとして通用するものも多いが、黒人霊歌をそのまま3コード、12小節のブルースにはしにくい。
歌詞の内容を見ても、黒人霊歌は宗教音楽、ブルースは基本的に宗教とは関係のない音楽だ。

フィールド・ハラーと黒人霊歌の違いは、過去のブログ『1800年代~ ブルースの起源』でアップした動画と、今回の動画を聞き比べてもらえばはっきりとわかるだろう。

アフリカからアメリカに移住させられた黒人奴隷達の中には、独自の宗教や信仰を持っていたものも多い。
しかし奴隷商人達は、彼らをコントロールするために、無理矢理キリスト教に改宗させたりした。

信仰を奪われるということは、自由や財産を奪われるよりもつらいことだと言う。
しかし、鎖に繋がれ、鞭で打たれ、水も食べ物も奴隷商人の手を通してしか得ることのできなかった黒人奴隷達に、反抗するすべは無かったのだ。

しかし、キリスト教はもともと慈悲と救いの宗教。
黒人奴隷の中には、キリスト教に救いを見出し、自ら受け入れ、学ぼうとするものが現れた。
また、キリスト教を、教育や道徳を得る唯一の材料とするものもいた。

こうしてキリスト教は、黒人奴隷達の間で広まっていったのだ。

救いを得るために、つらい農作業中も聖書の言葉を繰り返した。
やがて、それに節がつき、歌になった。
また、学のあるものが聖書の一遍を読み上げ、周りにいるものがそれに続いた。
やがて、それがコール&レスポンスになった。

こうして、黒人霊歌は生まれたのである。

黒人霊歌の美しさは、彼らの悲しみのせいかもしれない。
コール&レスポンスの力強さは、彼らの苦しみのあらわれかもしれない。

当時の黒人奴隷達の「祈り」が、音楽となり、現代の我々の胸に響いている。


♪ ♪ ♪

さて、 今回アップした動画は、『スティール・アウェイ・トゥ・ジーザス』という、黒人霊歌の名曲です。

作曲者はウォーラス・ウィリス。
作曲年ははっきりしておらず、少なくとも1862年より前だということで、奴隷解放令以前から歌われていたようです。

歌っているのはバーニス・ジョンソン・レーガン。
彼女は、フリーダム・シンガーズというグループのメンバーで、1960年代の公民権運動に参加し、黒人の権利向上と、非暴力を訴え続けました。

♪ ♪ ♪

さてさて、今回は2曲アップすることにしました。

次に紹介する曲は、厳密な意味では黒人霊歌ではないのですが、奴隷制時代も現代も、この曲は歌われ続けています。
アメリカ国民にとっては特別な意味を持つ歌で、「この曲が一番大切な歌」と言うアメリカ人も、少なくありません。

ジョン・ニュートン作詞。
作曲者は不明で、「アイルランド民謡やスコットランド民謡が起源になっている」「米国南部で作られた」など、諸説様々です。

作詞のジョン・ニュートンは、イギリスの奴隷商人でした。

奴隷貿易の実態は、それはそれはひどいもので、奴隷たちは家畜以下の扱いを受けていました。
アメリカ大陸につく前に、飢餓、脱水、伝染病、感染症などで死ぬものも多くいました。

そんなある日、ニュートンの乗った奴隷船が嵐にあい、難破してしまいます。
ニュートンはクリスチャンでありながら、この時初めて、真剣に神に祈りました。

そしてニュートンは、九死に一生を得るのです。

その後も、彼は奴隷貿易を続けるのですが、彼の奴隷に対する扱いは明らかに変わりました。

奴隷達に着る物を与え、水や食べ物を与えました。
奴隷達が収容された船底を掃除し、病人やけが人には治療を施しました。

ニュートンは、「命の尊さ」を知ったのです。

そして6年後、ニュートンは奴隷貿易自体から手を引きます。

しかし、彼の胸の中は、後悔の念でいっぱいでした。
奴隷貿易をしたこと、彼らにひどい仕打ちをしたこと、そして、多くの死者を出したこと…

ニュートンは考え続けました。

あの嵐の夜、神はなぜ、私を助けたのだろう?
こんなひどいことをした私を、神はなぜ生かし続けたのだろう?

ニュートンはそんな想いをこめて、この詩を書きました。

『アメージング・グレイス』

1947年の録音。
歌は、「ゴスペルの女王」マヘリア・ジャクソンです。

2009年10月10日土曜日

1865年 奴隷制の終わり 人種差別の始まり


1863年1月1日に『奴隷解放宣言』が出され、南北戦争が北軍の勝利に終わると、1865年に奴隷制は憲法により禁止された。
ここに250年に及ぶ米国最大の負の歴史は終わリを告げ、新しい時代が夜明けを迎える。

しかし、開放されたアフリカ系アメリカ人(黒人)たちを待ち受けていたものは、『人種差別』や『貧困』という、更なる悲劇だった。

2009年、バラク・オバマ氏が米国大統領に就任し、史上初の黒人大統領が誕生した。
これにより、「史上初の快挙」「米国は人種差別を克服した」などと、各種メディアが取り上げた。 しかし…

人類は、本当に人種差別を克服したのだろうか?
本当の自由や人権を、手に入れたのだろうか?

♪ ♪ ♪

奴隷制や人種差別問題を、「海の向こうの出来事」と考える日本人は多い。
しかし、日本国内にも奴隷制や人種差別は存在したのだ。

日本の植民地政策時代(1906-1945)や、第二次世界大戦中に、中国、朝鮮半島、その他の地域から人々を強制的に日本に連れ去り、過酷な労働に従事させた『強制労働問題』は、日本国内における奴隷制度であったと言い換えてもいいだろう。

また『従軍慰安婦』は、日本の和英辞典では『Comfort Woman(慰安婦)』と翻訳されているが、米英のメディアでは『Sex Slave(性の奴隷)』と表記されることがよくある。

『在日中国・朝鮮人』への差別は、日本国内に存在する明確な人種差別だ。

また、『えた・ひにん』は、同じ日本人に理不尽な身分を与え、強制的に被差別階級を作った、人種差別よりもさらに悪質な制度である。

中国、北朝鮮、韓国をはじめとした国々は、『強制労働問題』や『従軍慰安婦問題』への謝罪と賠償を、戦後60年以上が過ぎた現在でも求めている。

また、以前より減少はしたものの、『在日』や『えた・ひにん』に対する差別は、現在も無くならない。

歴史上の出来事は全て、「すでに終わったこと」ではなく、「未来への教訓」である。

だから、信じたい。

「過去の暗闇」は、これから作り出す「未来の光」のためにあったのだと。

2009年10月9日金曜日

1800年代~ ブルースの起源



19世紀初頭から中ごろにかけて、米国深南部(ミシシッピ、テネシー、アラバマ、ルイジアナ、ジョージアなどを含む地域)のプランテーションで働く黒人奴隷たちの間で歌われていたフィールド・ハラー(労働歌)が、ブルースの起源だ。

もちろんそれ以前にも(当然アフリカ時代から)黒人達の間に歌はあったのだが、シンコペーションのリズム、ブルーノート・スケール、4拍子で区切られる整った小節感覚などがそろい始めたのがこの頃であるといわれている。

また、黒人奴隷の間にキリスト教が普及し、一人が聖書の一遍を読み、皆がそれに呼応する「コール&レスポンス」も同じ頃に生まれた。
ゴスペルの基礎となる、黒人霊歌(スピリチュアル)の始まりである。
現代のゴスペルも、ソロシンガーが歌い聖歌隊がそれに答えるという「コール&レスポンス」のスタイルを受け継いでいる。

ブルースと黒人霊歌は、ほぼ同じ頃、同じ黒人奴隷たちの間で生まれ、互いに影響しあいながら発展してきた。
しかし、黒人霊歌はあくまで宗教音楽。
ブルースは、宗教とは基本的に関係のない労働歌(「母ちゃんのためならエンヤコーラ」のようなもの)である。

ブルースや黒人霊歌が生まれた頃、もちろんレコードなどの録音技術は存在しない。
しかも、楽譜どころか文字さえ書けない人たちが生み出した音楽であるから、『世界最初のブルース』は、曲も、歌詞も、記録すらも残されていない。

アフリカの記憶、アメリカの大地、そして歴史の爪跡。
世界最初のブルースを聞きたければ、それらを思い描きながら、想像の中でジューク・ジョイントするしかない。

♪ ♪ ♪

さて、アップした動画はNegro Prison Song(黒人収容所で歌われていた歌)の『Rosie』という歌です。
奴隷制時代からはるか時が過ぎた1947年の録音ですが、フィールド・ハラーの雰囲気が良く出ているのでこれを選びました。

ソロ・シンガーが歌い、周りがそれに呼応する『コール&レスポンス』が印象的で、後ろでリズムを刻んでいる音は、斧で木を切る音です。

ロージーという名の女の人に捧げる愛の歌で、

『 結婚しよう。
 君の手には幸せが握られてるんだよ。
 結婚しよう。
 約束じゃないか、いつか自由になったらって。』

という意味の歌詞が歌われています。

2009年10月8日木曜日

1619年~ 米国奴隷制時代


1619年、米国バージニア州の港に20人の黒人が降り立った。
米国史上初の“奴隷”として、アフリカから強制移住させられた者たちだ。

『奴隷制度』という、約250年にわたるアメリカ合衆国最大の負の歴史が、ここから始まる。

黒人奴隷を労働力として、タバコや綿花を主産物としたプランテーション経済は米国に巨万の富をもたらし、1700年代には黒人奴隷の数は50万人を超えていたと推測される。

単なる農場労働力や召使いとして存在した奴隷たちは、自由を持たず、人権を持たず、スレイブ・オーナー(奴隷所有者)の私有物として牛馬同様の扱いを受けていた。

1776年の独立宣言後も、奴隷制は継続された。

1808年の『奴隷貿易禁止令』の後は、米国国内に奴隷飼育とでも呼ぶべき産業が生まれ、奴隷は金銭により売買され、奴隷の子供たちは家族から切り離された。

しかし1800年代に入ると、そんな奴隷制に異を唱え、私的に奴隷を開放したり、待遇を向上させる傾向が主に北部の都市で現れる。

1820年の『ミズーリ妥協』で、米国北部での奴隷制が禁止されると、奴隷制廃止を訴える北部と、奴隷制堅持を支持する南部との間で対立が深まる。

そして、共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に就任すると、南部11州は合衆国を脱退し、『南北戦争』(Civil War 1861-1865)が勃発した。