2009年11月14日土曜日

1919年 第一次世界大戦終結


世界30カ国以上が参戦し、欧州、中東、アジア、アフリカ、北米、太平洋、大西洋、インド洋地域を巻き込んだ第一次世界大戦は、世界の勢力構図と政治形態を大きく変える結果となった。

1917年、ロシア革命が起こり、帝政ロシアが崩壊。
第一次大戦から脱落したロシアは、賠償として勢力化にあったフィンランド、バルト地方、ポーランド、ウクライナなどを割譲。
レーニンを指導者とする、社会主義体制へと向かう。

1917年、中立を保っていた米国の第一次世界大戦参戦。
米国の参戦により均衡が崩れ、ドイツ帝国が崩壊へと向かう。

1918年、ドイツ革命が始まり、ドイツ帝国が崩壊。
同年11月11日、新しく発足したドイツ共和国と、米国、英国を中心とする連合国との間で休戦協定成立。

1919年6月28日、ベルサイユ条約調印により、第一次世界大戦が終結。

世界の構図と勢力図は、第一次大戦によって大きく塗り替えられた。

「帝国主義」が時代遅れになり、「君主制」が消滅した。
ベルサイユ条約により「国際連盟」が発足し、「世界平和」という新しい理念が生まれた。
そして、「社会主義」という新しい体制が始まり、「民主主義」と反目し世界を二分する。

そして、表面上は終結した第一次世界大戦だが、世界中に深刻な爪あとを残した。

オーストリアのハプスブルグ家の追放により、新国家ユーゴスラビアとチェコスロバキアが誕生。
しかし、この両国は国内での民族紛争が続き、やがて分裂する。
そしてその紛争は、現在も続いている。

オスマントルコの崩壊により、アラブ人とユダヤ人が大量流出。
イギリスがアラブ人とユダヤ人双方にパレスチナでの国家建設を約束したことにより、パレスチナ問題へと発展する。
パレスチナとイスラエルは、現在も抗争状態にある。

ドイツへの過剰制裁により、政治、経済両面で様々な問題が発生。
これらは、ナチス・ドイツによる第二次世界大戦への引き金となる。

戦勝国となった日本の国際的地位向上と経済的発展。
これにより、日本のアジア地域での植民地政策がすすみ、太平洋戦争への引き金となる。

こうして、かつてない被害と死傷者を出した「第一次世界大戦」は、約20年後に訪れる人類史上最大の悲劇、「第二次大戦」の要因を世界中にばら撒き、終結した。

♪ ♪ ♪

今回アップした動画は、ベートーベン交響曲第9番の後半部分です。
前回同様、ブルースとは何の関係ありません。

演奏は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
指揮は、フェルベルト・フォン・カラヤン。

カラヤンは、世界3大オーケストラのベルリン・フィルの音楽監督と、同じく3大オーケストラのウィーン・フィルの芸術監督を兼任し、ベルリン・フィルから「終身主席指揮者兼芸術総監督」という最高栄誉を受けた、20世紀最高の指揮者の一人。

日本にもカラヤンのファンは多く、日本を代表する指揮者、小沢征爾氏の師であり、NHK交響楽団で指揮したこともあります。
また、日本で行われた「あなたが選ぶクラシックの名盤」の投票で、上位30枚のうち28枚がカラヤンの指揮だったということもありました。

他にも、CDの録音時間を『第九』の入る74分に決めた、オーケストラで初めて女性奏者を雇ったなど数々の逸話があるカラヤンですが、実はこの人、とても数奇な人生の持ち主でもあるのです。

フェルベルト・フォン・カラヤン。
1908年4月5日オーストリアのザルツブルグ生まれ。
第一次世界大戦の敗戦国となる、オーストリア帝国で音楽を学びました。

1929年にデビューし、1939年にはドイツのベルリン国立管弦楽団と、イタリアのミラノのスカラ座でオペラの指揮者に就任します。

なんとも輝かしい経歴ですが、1939年といえば第2次世界大戦の2年前。
この時期にカラヤンは、日本と共に3つの敗戦国となる、ドイツとイタリアに本拠地を置くのです。

そして同39年、ナチスの指導者、アドルフ・ヒトラーの主催する演奏会の指揮者に任命されます。

カラヤンの得意とするベートーベンやワーグナーは、同じドイツ出身のヒトラー大のお気に入りでした。
カラヤンは、ヒトラーから「君は神の道具だ」と最大の賛辞を受け、ナチス党員に抜擢されます。

それからというもの、カラヤンのオーケストラはナチス文化の象徴となり、シンフォニーは党員の士気の鼓舞に使われました。

1941年、第二次世界大戦勃発。

ナチスは近隣諸国を蹂躙し、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの大量殺戮を行います。
何百万もの罪のない命が奪われ、運よく生き残った人々も、一生消えない傷を心や体に刻まれました。

そして1945年、第二次世界大戦の終結とドイツの敗戦。
「ナチス」と「ヒトラー」の名は、史上最大の「悪」として歴史に刻まれます。

翌1946年、カラヤンは故郷オーストリアでの演奏会に着手しました。
しかし、ナチス党員であったことが発覚し、占領軍により公開演奏停止処分を受け、その後3年間、カラヤンは迫害を受け続けます。

戦争により、カラヤンは音楽を奪われてしまいました。
人々も、次第にカラヤンを忘れ去っていきました。

しかし、本物の芸術と才能は、カラヤンをこのまま終わりにはしなかったのです。

1948年、再びウィーン・フィルの主席指揮者に就任。
1950年代には、敗戦の傷跡が残るイタリアのミラノ・スカラ座で指揮。
そして1955年には、最大の敗戦国であるドイツのベルリン・フィルで、終身主席指揮者芸術総監督となるのです。

戦後、カラヤンの指揮は変わりました。

格式やしきたりよりも、聞く人と演奏する人を大事にするようになりました。
自分の地位や名声よりも、芸術の向上を第一に考えました。

そして、体調不良に悩まされながらも、芸術の普及と後進の育成のために世界を飛び回り、世界で一番多忙な音楽家となるのです。

カラヤンの芸術に対する執念は、年を負うごとに増していきました。
世界最高の地位にあるカラヤンが、なぜそこまでするのだろうと、人々は噂しました。

あくまで想像に過ぎませんが、もしかしたらカラヤンは、戦争によって奪われたものを取り戻そうとしていたのかもしれません。

それは、「音楽」の本当の姿。

第二次大戦中、カラヤンの音楽は芸術本来の姿を失っていました。
そして敗戦と共に、カラヤンは音楽自体を取り上げらます。

しかし、世界の頂点にいる指揮者も、路上演奏の貧乏ミュージシャンも、音楽家が描く想いは同じだったのです。

「国や戦争のためでなく、芸術や感動のために演奏したい。」

「独裁者(ヒトラー)のためでなく、音楽を愛する人々のために演奏したい。」

カラヤンは、タクトを振り続けました。

タクトの振りすぎにより脊髄をいため、生涯に3度の手術を受けました。
脳梗塞のため、リハーサル中にタクトを落とし、指揮台から落下したこともありました。
晩年には歩行も困難になり、指揮台の回りに柵をめぐらして指揮をしました。

「楽壇の帝王」と称された、20世紀最高の指揮者カラヤン。
しかしその基盤は常に、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアであり、第二次世界大戦の敗戦国ドイツとイタリアでした。

1989年7月16日、カラヤンはこの世を去ります。
地元の教会に、カラヤン自らが用意していたという墓地は、それはそれは質素なものでした。

ザルツブルグ市はカラヤンの功績をたたえ、豪華な墓地の提供を遺族に申し入れました。
しかし、カラヤンの未亡人であるエリエッテ夫人は、「故人の意思ですから」と、市の申し入れを現在も断り続けているといいます。

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