2009年11月24日火曜日

1923年 『ダウン・ハーテッド・ブルース』 ベッシー・スミス



1920年、メイミー・スミスがブルースとして世界最初のレコード『クレイジー・ブルース』をリリースし大ヒットすると、黒人女性ブルース・シンガーに世間や業界の注目が集まり始めた。

こうした時代の波に乗り、ベッシー・スミスは1923年、『ダウン・ハーテッド・ブルース』でデビューし、大ヒットを記録する。

テネシー州チャタヌーガの路上で、その日のパンを得るために路上演奏していた少女が、ついにスターダムへの階段を駆け上がるのだ。

1920年代に始まる世界大恐慌でアメリカ全体が低迷している間にも、ベッシーは着々と成功の階段を上り、ついにミュージカルの聖地ブロードウェイでの成功を手中にする。

そして、1930年代に入りスイングが大流行すると、ベッシーは「ディキシーランドの神様」ルイ・アームストロング、「ビッグバンドの先駆け」フレッチャー・ヘンダーソン、「スイングの王様」ベニー・グッドマンらと共演する。

こうしてベッシーの人気と地位は不動のものとなり、彼女はいつしか「ブルースの女帝」と呼ばれるようになった。
彼女の声量は「建物も揺るがすほど」といわれ、情感溢れる歌声は彼女の死後70年以上を過ぎた現在でも、「ブルース史上最も偉大な女性ボーカリスト」と言う専門家も多い。

ベッシー・スミスは、まさにブルース界のシンデレラであった。

しかし、ベッシーの死は突然に、そしてあまりにも悲しい形で訪れた。

1937年9月26日、ルート61でベッシーは交通事故に遭い、重傷を負う。

目撃者がすぐ救急車を呼び、ベッシーは急遽搬送されたが、なんと市内の白人用の病院が、黒人であるベッシーの収容を拒否したのだ。

市内をたらいまわしにされ、出血多量のため手遅れとなったベッシーは、翌日、事故現場から遠く離れたミシシッピ州の病院で息を引き取る。

ブルース界最大の才能と、43歳という若い命が永遠に失われた瞬間だった。

実際に救急車を呼んだ目撃者は、事故当時のベッシーはまだ意識があったと証言している。
しかも、その目撃者に医学の知識があったことから、応急手当も完璧だったという。

ベッシーの本当の死因は交通事故ではなく、人種差別だったのだ。

彼女の代表作はデビュー作の『ダウン・ハーテッド・ブルース』、ベッシーの代名詞『セントルイス・ブルース』、1928年の大ヒット曲『エンプティ・ベッド・ブルース』などが上げられる。

上記3作品は、後世に残したい名曲“グラミー・ホール・オブ・フェイム”を受賞。
その他、彼女には数百曲の録音があるといわれるが、聴けるものと聴けないものがあり、復刻版の製作が続けられている。

♪ ♪ ♪

さて、今回アップした動画は「ブルースの女帝」ベッシー・スミスのデビュー曲『ダウン・ハーテッド・ブルース』です。

本文でもご紹介したとおり、ベッシーを本当の意味で死に追いやったのは、交通事故ではなく人種差別でした。
しかしベッシーが死亡した1937年当時、ベッシーの収容を拒否した病院側の態度は、決して「違法」ではなかったのです。

ジム・クロウ法
1876年から1964年にかけて、アメリカ合衆国南部の州に存在した人種差別法。
アフリカン・アメリカン(アメリカ黒人)、ネイティブ・アメリカン(インディアン)、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、ブラウン(黒人と白人の混血)を対象に、法律、権利、教育、生活態度にいたるまで、白人との差別化を明記した法律。
州によって内容は異なり、それらを総称してジム・クロウ法という。

内容としては、主にこんな感じです。

黒人の定義。先祖四代に遡り、黒人の血が一滴でも入っていれば、黒人とみなす。
黒人と白人の結婚、交際の禁止。一つの部屋で夜を共にするのは、性行為の有無にかかわらず違法。
白人女性看護師のいる病院には、黒人男性の立ち入り禁止。
黒人学校と白人学校の分離。
バスや電車の座席、車両の分離。レストランや公共施設の分離。
社会的平等や、異人間種結婚を推奨する出版物、集会、講演、宣伝、その他の活動の禁止。

上記以外にもにもさまざまな取り決めがありましたが、違反者には厳しい罰則や罰金が科せられました。

音楽業界においても、人種差別は同様でした。

差別の強い南部を逃れ、多くのアーティストが北部へ移住しました。
演奏しているのは黒人なのに、ジャケット写真は白人というレコードが売り出されました。
ルイ・アームストロングほどの大物が、ツアー先でホテルに泊まれず車の中で寝た、ということもありました。
ナット・キング・コールほどの優れた歌手が、歌ってる最中に顔にいたずら書きをされる、ということもありました。

そして極め付けが、このベッシー・スミスの死です。

1964年7月2日に公民権法が制定され、ジム・クロウ法は即時廃止となりました。
しかしそれまでは、有名無名にかかわらず、ほぼ全ての黒人アーティストが人種差別の被害者でした。
それによって失われた才能は、もはや統計を取れるレベルではなく、、取り戻すすべもありません。

国際化、グローバル化が叫ばれる現在、音楽はユニバーサル・ランゲージ(世界言語)であると言われています。
それは、日本語や英語などの言語を理解しない間柄でも、同じ楽しみや悲しみ、感動などを共有できるからです。

古いブルースのレコードを聴くと、当時の黒人達の嘆きや悲しみが伝わってきます。
自分のすぐ隣にいる人を。自分とちょっと違うからと言って差別するのは、世界へ通じる心の窓を閉じてしまうのと同じくらい、悲しく、浅はかなことに感じます。
だって、こんなに時を隔て、海を隔て、言語も歴史も文化もまったく違う人の歌う歌が、こんなに心にしみるのですから。

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