2009年10月27日火曜日

1909年 「ブルースの父」WC・ハンディと『メンフィス・ブルース』



1909年 「ブルースの父」WCハンディ(1873-1958 アラバマ州出身)は、アラバマ州フローレンスの敬虔なクリスチャンの家に生まれた。

生まれた頃から教会音楽に親しんで育った彼だが、幼少の頃の彼の心を捉えたものは、アラバマ州の田舎町に生息する蝙蝠のはばたく音、ふくろうの鳴き声、サイプレス・クリークという渓谷で汗ばんだ手や顔を洗った時の音だという。

「オルガン教室や教会の音楽よりも、南部の黒人労働者がシャベルで大地をたたき、そのリズムで歌うのを聞いているのが好きだった。彼らのリズムはクラシック音楽よりも複雑で、彼らの唄は人生の全てを歌っていた。」

後年、ハンディ自らが語った言葉だ。
南部の黒人達が歌うフィールド・ハラー(労働歌)が、後に「ブルースの父」と呼ばれるハンディの下地を作ったのであろう。

音楽家としてそれなりの教養と経験をつんだハンディは、1903年、ミシシッピ州デルタ地帯のタトワイラーという駅でブルースと出会う。

ブルースという音楽は、決してハンディが生み出したわけではない。
それまで、音楽的教養のない、南部の貧しい黒人達が演奏していたブルースを、音楽的教養があり、比較的経済的に恵まれた黒人、WCハンディが世に送り出したのだ。

こうして来たる1909年、ハンディはオリジナルのブルース『メンフィス・ブルース(原題ミスター・クランプ)』を発表する。
そして1912年、この『メンフィス・ブルース』は世界初のブルースの楽譜として出版されるのだ。

この『メンフィス・ブルース』が作品として生み出されるために、ハンディが研究した南部の黒人音楽“ブルース”を、彼はこう語っている。

「南部の黒人達の歌は、3度と7度の音(ミとシ)が微妙に下り、メジャーとマイナーの中間のようなキーを作り出している(現在のブルーノート・スケール。)また、彼らの歌にはトニック、サブ・ドミナント、ドミナント・セブンのコード進行が見られた(現在の3コード進行。)そして彼らは、同じフレーズを2度繰り返して歌い、3度目にその結末のような歌詞を持ってくる(これを整理すると、12小節になる。)」

ブルーノート・スケール、3コード、12小節。
これ以降、全てのブルースの原型となる「12バー(小節)・ブルース」が、こうして完成した。

♪ ♪ ♪

今回の動画は、WCハンディ作曲の『メンフィス・ブルース』を、デューク・エリントンの演奏でお送りします。

デューク・エリントンは、言わずと知れた『ハーレム・ルネッサンス』の雄、スウィング・ジャズの巨匠です。

よく、ブルースとジャズの違いについて質問されるのですが、この曲を例にとって説明してみましょう。

簡単に言うと、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』は、曲がブルース、アレンジや演奏形態がジャズということになります。

『メンフィス・ブルース』の楽譜が出版された1912年、ジャズにはまだ正式名称がありませんでした。

Jasshouse Music(ジャスハウス・ミュージック/売春小屋音楽)などと呼ばれていましたが、Jass(ジャス/性交や女性器を意味する南部の古い俗語)という差別的呼称を避けるために、Jazz(ジャズ)という正式名称が1920年代に米国シカゴでつけられました。

したがって、1920年代以前には、”ジャズ”という音楽の正式なジャンルはなかったわけですね。
ジャズは、ブルースや黒人霊歌などを演奏するための、演奏スタイルの一つだったんです。

どうりで、ジャズの曲名には『~~ブルース』というのが多いのも頷けます。

しかし、1920年代以前のニューオリンズやディキシーランドの即興演奏には、ブルースの枠ではくくりきれないものが多くありました。
また、ジャズが確立されてからの発展には、他のどのジャンルの音楽も追随できないものがあります。

こうしてジャズは、音楽のジャンルとしての地位を高め、独立していったわけです。

さて、このデューク・エリントンの『メンフィス・ブルース』ですが、多少変則的な小節割りやII-V-Iといったジャズお決まりのコード進行などがありますが、中盤では明確な12小節、3コードのブルースが聴けます。

では、”世界最初のブルース”を、お楽しみください。

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